ブログ、完了します。

こんにちは。

卒業式の季節ですね。

「卒業式の感動があるから、教師を続けている」

ということもあるようです。

 

そして、このタイミングで、私も、

このブログを終了(完了)することにしました。

 

約2年間にわたり、主に教育業界について

あれこれ書いてきたブログでした。

 

いろいろ書いてきて、教育業界の最大の課題は

「はじめたことをおえること」

だと気づきました。

 

それは、例えば、「卒業式でおえる」ということではなく、

卒業式自体を「やめる」(又は大幅に簡略化)、という意味です。

 

「あり方を変える」とは、そういうことです。

 

自分にとって大事なものを手放したとき、

本当に大切なものが入ってきます。

 

それでは、また、どこかでお会いしましょう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

See You Again.

 

どこから始める?

今から10年以上前の話だが、

某国立大学の教育学部で、教育方法に関する授業を

非常勤講師として担当したことがある。

当時から、教師の多忙化は問題になっていた。

学校の教師は、授業だけでなく、生活指導、部活動、

行事の準備、地域活動等、様々な仕事に追われ、

本当に「ブラック」な働き方をしている(場合が多い)。

このような現状を踏まえたうえで、

私は学生たちに、これからの教師の望ましいあり方として、

次のような話をした。

 教師は、一人の普通の労働者として

「教える」技術の専門家になった方がよい。

何でも屋になってしまうと、何のために、誰のために

働いているのかわからなくなっちゃうから。

そこで例えたのが、スポーツジムのインストラクターだった。

エアロビクスでもヨガでも、インストラクターは、

明るく元気に、限られた時間の中で参加者が楽しませながら

その分野に入り込めるよう、様々な工夫をする。

そして、指導するための技術を磨き続ける。仕事として。

そういったあり方が今後、学校の教師にも求められる、と語った。

そして、この話に対する学生の反応がとても興味深かった。

学生たちは猛烈に反発してきた。

彼らの主張はこうだった。

「私たちが目指している仕事を、

スポーツジムのインストラクターと一緒にしないでほしい。」

「私たちは、子どもたちを教え導く、という崇高な仕事をするんだ」

まぁ、要約するとこんな感じだった。

私は、正直、あきれた。

こういう、教師を聖職とする見方への違和感はもちろんだが、

インストラクターを見下す考え方、価値観に驚いた。

(そこに無自覚なことが一層腹立たしい。)

でも、こういう考え方って、今でも教育学部や学校現場には

きっとあるんだよね。

確かに、教育という仕事には創造的な部分、ロマンがある。

子どもの成長を見つめながら寄り添うことの尊さがある。

お金のために働いてるんじゃない、という自負も

教師にはあるかもしれない。

  :

でもさぁ、そういう、

見方によっては「おごり」ともとれる教師のあり方が、

ブラックな職場が存在する一因になってるんじゃないかなぁ。

ただ、これはもちろん、教師だけの責任ではない。

教育行政に携わる人々、保護者、もっといえば社会一般に広がる

「教師は子どもたちにために(無制限に)がんばるべき」

という「べきべき」論が、教師を苦しめているという側面がある。

じゃあ、解決策は?

つきつめると、私はこの問題を考えるために、

このブログを始め、書き続けてきた気がする。

そして、今、思うこと。

教師は、日本の教育、教育行政、地域、学校、学年、クラス等、

自分を取り巻く様々な要素から、

一旦、距離をとった方がよいと思う。

まずは、自分を守ろう。

ブラックな職場で、精神を病んだり、

燃え尽きたりするのはもうやめよう。

一人の普通の労働者として、

やれることはやるけど、やれないことはやらない。

あまりにも無茶な要求がきたら拒否する。

それが認められないなら辞める(ことも覚悟する)。

そう、一人の人間として、自分らしく幸せに生きる。

そこをまず、第一に考えることからすべてが始まる。

自分が自分らしく存在していない人が、

子どもが自分らしくいて安心できる場をつくることはできないから。

 

 

オワコン化する大学

大学受験シーズンが終わろうとしている。

聞くところによると、

一人勝ちと言っていいほど、受験生、入学生を集めた大学と

入学生が激減し、大幅に定員割れする大学がある。

後者の大学は、受験生に合格を出しても、

その合格者が入学手続きをしない。

つまり、他大学に受かっていれば、そちらに入学する。

大幅に定員割れする大学というのは

吸引力がないというか、魅力がないというか・・

北斗の拳」(漫画)でいうところの

「お前はもう死んでいる」状態。

一旦、Fランク(誰でも入れちゃう)大学のレッテルを貼られ、

それが大幅な定員割れという形で実証されたら

「あぁ、そういう大学なのね」ということになって

あとは転落の一途だ。

しかし、今は勝ち組の大学も決して安泰ではない。

今後も、18歳人口はどんどん減っていくからだ。

経済状況も家計状況も悪化が予想されているから、

高い入学金、授業料を払ってまで、

わざわざ4年間、大学に通わせようという保護者、

通おうとする高校生も、どんどん減るだろう。

実は私、大学教員だが(笑)

「もう、大学なんて来なくていいよ」と本気で思ってる。

意味がない。

学ぼうと思えば、youtubeで質の高い、かつ面白い

動画が無数にアップされている。

無料でスキル、ノウハウを提供する

オンラインの講座、セミナーも多数開催されている。

教養的な知識、専門的な知識も、漫画やアニメ動画等で

わかりやすく紹介されている。

さらに「オンラインサロン」等に参加すれば、

質の高い知識、スキルを楽しく面白く提供してくれる本人に

直接質問したり、お話できたりする。

向上心に富む、同じ目的意識をもった人同士の

横のつながりもできる。

最高だよね!

ところが、大学なんてところに入ったら最悪。

講義は退屈。

しかも一方的につまらない話を聞かされ、何のフィードバックもない。

小テストやレポート、試験まで課され、ストレスだらけ。

最近は、オンラインでの講義も増えているから、

講義後も、教授に直接質問なんてできないし、
学生同士の横のつながりもない。

しかもコロナ禍なので、

サークル、部活動を通して愉快なキャンパスライフ!

なんてこともかなり制限される。

正に、踏んだり蹴ったり。

でも、大学の入学金、授業料ってほとんど変わってないんだよね。

これじゃあ「割に合わない」という思うのも同然。

大学という箱自体が、もはやオワコン(終わったコンテンツ)

なのかもしれない。

だから今、大学は、キャリア教育にとても熱心。

出口を宣伝する。

例えば、就職率○%! 上場企業に○人合格!みたいな・・

でもこれって、塾や予備校の戦略と一緒だよね。

そこにどんだけの誤魔化しがあるかなんて、

一般の人はとっくに気づいてる。

そもそも、就業力をウリに大学なんかに入学するくらいだったら

目標を決めて専門学校に入学する方が、よほど理に適っている。

就職予備校化する大学なんて、ホント、魅力ない。

キャリア教育をウリにするような大学も

今後は無残に凋落していくでしょうね。

以上、終わりゆく大学住人の考察でした。

 

 

 

 

授業は教員のエゴ?

ずっと、疑問に思っていることがある。

「一斉授業って、教員のエゴじゃないの?」

学習指導要領、それに基づいてつくられた

教科書を使って、教員は一斉授業を行う。

確かにそれは制約かもしれないが、

授業づくりにおいて、かなりの裁量権を教員は持っている。

教員は、一斉授業を自由に組み立てる。

そこに、教員のやりがいはあるし、

そこに可能性を見出して、教員を目指した(目指す)人も多い。

でもさぁ、

教員が、教科書を使って伝えたいこと、

その「思い」みたいなものって

一つの個性の発揮だから、

当然、「それ、受け取りたくない(聴きたくない)」という

子どもがいても不思議ではない。

いや、教員が個性を発揮した授業をすればするほど、

それに合わない子どもは、当然、いるはずなのだ。

でも、合わないからといって、

「この授業、私には合わないので受けたくありません」

という権利を、多くの場合、子どもは持っていない。

こういう状態って、ほっておいて良いものだろうか・・

 

教員の個性は、その「思い」だけでなく、

一斉授業において、次のことに現れる。

① 授業のねらい(方向性)

② 教材、教具

③授業展開の流れ

④授業の難易度

⑤演習の進め方、技法

⑥学習の振り返りの仕方

⑦フィードバックの仕方

教員は、これらのことについて、

事前に考えて授業をする訳だが、

一クラス40人の子どもがいたとして、

その全員に合わせた授業をつくることはできない。

だとしたら、教員の一斉授業の進め方に合わない、

ついていけない、あるいは簡単すぎてやる気にならない

子どもの学習権はどうなるのだろうか?

一斉授業をすること自体が、そもそも教員のエゴ(我がまま)

なんじゃないだろうか?

少し過激な表現を許してもらえれば、子どもにとって

一種の暴力といえなくもない。

こうした問題は、学校教育を一斉授業を前提に構築している限り

永遠のついてくると思う。

もちろん、問題意識をもって、こうした問題への解決策を

考えた人たちはいた。

たとえば、古いところでは

大正自由主義教育があげられる。

海外では、ドルトンプラン、イエナプランなどがある。

しかし、どんなに一人ひとりの

子どもの自由を保障する教育を考えたとしても

教員が教育プランづくりを手放さない限り、

そこにはやはり暴力性がつきまとう。

(どんなプランにも合わない子どもはいるから)

教育とは、そもそも暴力なのかもしれない。

ただ私は、教員がエゴを手放し、すべて

子どもの自由に任せればいいと思っている訳ではない。

そんなことをしたら、そもそも「学校」が成り立たないだろう。

大切なのは、教員が

「自分がやっていることは暴力かもしれない」

「自分は権力を振り回していないだろうか」

ということに、自覚的であることだ。

その自覚があれば、教えることにも学ぶことにも

謙虚であり続けることができるだろうし、

一斉授業も「あまりひどいことにはならない」。

できることはできるし、できないことはできない。

そう開き直って、授業づくりを可能な限り、時代に合った

洗練したものにしていく。

それが今、教員にとって、大切なことだと思う。

 

 

 

 

抵抗が起きたら・・

以前、コーチングを習っていた。

そこで、コーチが繰り返し、話していたのは、

「人は、自分を止める天才」だということ。

人は、やりたかったことが目の前にあり、

それができる環境が整うと、とたんに

「自分で自分を止めようとする」。

不思議だよね。

だって、やりたいことがやれるって

とても恵まれたことだし、幸せな状態のはず、だ。

でも・・

ずっと、変わりたい、自分を変えたいと

思っていた人が

「変わっていいよ」という状態になると

とたんに尻込みしてしまう・・

分かりやすい例がダイエット。

順調に体重が落ち、もうちょっとで
目指していた体重、みたいになると
とたんに怖くなって

もとの体重にもどっちゃう行動(いっぱい食べる)を

やってしまう。

やりたい仕事が目の前に出されると、

何か理由をつけて自分を止める。

例えば、

今の仕事が急に忙しくなる、

気分が落ち込むようなことが起きてやる気を失う、

突然気が変わって

「目の前に出された仕事。これ、本当にやりたいこと?」

みたいなことを言い出す・・

自分の状況を使って、人を巻き込んで、等、

いろんなパターンがあるが、

要するに、自分を止める理由を自分の外側や内側につくりだす。

こういうのを、私のコーチは

「抵抗」と表現していた。

「やりたい!」に向かって進む、正にそのタイミングで

「抵抗」は起きる。

作用と反作用と言っていいかもしれない。

そしてこれ、裏を返すと

「抵抗」は、正に今、

やりたいことに向かって決断して進むとき!という合図なのだ。

チャンス!

自分が自分を全力で止めてるってことは

すぐ目の前に「本当にやりたいことがある」ってこと。

じゃあ、どうしたら

人は「抵抗」から逃れることができるのか。

これ、ポイントだよね。

逃れるには、次のステップを踏む。

1)自分に「抵抗」が起きていることに気づく

2)「抵抗」を味わう

3)「抵抗」に感謝する

4)「抵抗」を手放す

抵抗っていうのは、ある種の自己防御反応。

新しい世界に踏み出そうとしている自分に対し、

「今のままの方が安全だよ」

と心配して止めてくれているのだ。

だから、抵抗に感謝する。

「ありがとう、私のことを心配してくれて」

「でも、自分は前に進みたい」

と言って、その「抵抗」を手放す。

「抵抗」にさよならする。

「前に進む」と決断して、行動を起こす。

すると、「抵抗」も諦めて、ことを起こさなくなる。

でも、このステップ。

心理的には相当つらい。

極端なことを言えば、

今までの自分に「死んでもらう」訳だから。

新しい自分に生まれ変わる。

そのきっかけが「抵抗」。

「抵抗」を笑って受け入れ、味わい、そして手放そう!

そうすれば、未来はあなたのものだ。

 

 

 

問題はどこにあるか

大学で「問題解決」をテーマにした授業を担当している。

問題解決。

「問題」には、荒く言って二種類ある。

①「個人」の問題

②「組織」の問題

①の具体例。

部屋が片付かない。

貯金がたまらない。

就活で何から動いていいかわからない。

   :

②の具体例

バイト先の人間関係が悪い。

部活のチームワークが弱い。

ゼミの運営体制に不満がある。

   :

こういった問題の「解決」を授業の中で考える。

①は、②に比べるとやさしい。

自分の考え方、行動を変えるだけでいいからだ。

(それも実は大変だが・・)

人は、①の問題がある程度、解決できるようになると

②の問題に直面する。

②の問題が難しいのは、

長年にわたって築かれてきた、
その組織の文化に根差しているからだ。

「文化」には、荒く言って二種類ある。

A)縦の文化

B)横の文化

A)の具体例。

一番わかりやすいのが、硬直した官僚組織。

上司の命令は絶対。

現場の(下の)人が

「それ、絶対まずいですよ」

と思っても、質問や反論は許されない。

「上からの命令だ。やれ」

以上。

この文化の特徴は

「問題があってもないこととされる」だ。

「~~って問題じゃないですか?」

「~~ってどうなんですか?」

みたいなことを下の人が指摘(質問)すると

上の人は、黙殺するか、

「いいから黙ってやれ」ってなるか、

しぶしぶ(いやーな感じで)現状について教えてくれる。

そもそも、下から問題を指摘されないように

上の人は、情報をなるべく公開しない。

公開すると、上記のような指摘を「受けやすく」なるから。

次に、B)の文化の具体例。

スターバックス

スタバでは、従業員のことを「パートナー」と呼ぶ。

パートナー。つまり、横の関係。

本部は、現場の店舗、従業員を「サポートする」という文化。

横の文化は、お店を利用する人にも広がる。

スタバのお店に入ると、

「いらっしゃいませ」(お客が来た)ではなく、

「こんにちはー」(笑顔)ってなる。

スターバックスのCEOを務めた岩田松雄氏はある記事で

次のことを従業員に語ったという。

  ****************

  スターバックスの社員である前に
  人間として正しい判断をしてほしい。

  必ず私はその判断を支持するから。

  ****************

こんな風に言ってくれる上司がいる組織で働きたいなぁ。

でも、B)の文化をもつ組織でも

問題は常に起こっていると思う。

というか、問題をみんなで共有して、

関連する情報を密に交換して、

「共に解決しよう」ってなるんだと思う。

さて、ここまでで明らかなのは、今後、

縦の文化の組織は衰退し、

横の文化を育てる意思をもつ組織は発展する、ということ。

そして、組織と言ってもそれをつくるのは、個人。

だから、個人として、横の文化に身を置く。

横の文化に自分を馴染ませる。

横の文化を広げる人になる。

それが、個人としての「問題解決」になる、はずだ。

 

 

 

 

 

自分軸をもつ

好きなことをして生きる。

自分の夢を叶える。

自分に合った仕事を見つける。

こういうのが理想だと思って

大学でキャリア教育を担当してきた。

でも、最近、疑問をもっている。

例えば・・

自分に合った仕事なんてあるんだろうか?

仕事って、自分以外の他人の役に立つから

お金をもらえるんじゃないの?

そして、他人の役に立つって

要するに、その他人に寄り添い、

その他人の希望を叶えること。

組織に所属している人であれば、

その組織にとって役立つ人であるかどうかが

まず問われる。

「自分に合った仕事なんてない!」

「仕事に自分を合わせるんだ!」

なんて言われることがあるが、

そう考えた方が現実を生きやすい気がする。

そもそも

「この仕事を自分は好きか?」

「この仕事は自分に合っているか?」

なんてことを意識している時点で

その仕事に没頭できてないし、

他人に、組織に、寄り添えない。

「自分」というものを横に置いて、

目の前の仕事に没頭する。

「目の前にある仕事を “好きになる”」。

好きなことを仕事にするんじゃなくて、

与えられた(目の前の)仕事を “好きになる”。

まず、こういう姿勢をもつことが、

大事なんだと思う。

でもここで、重要な反論が新たに生まれる。

そんなこと言ったってさぁ、

もともと好きじゃない仕事を

無理やり好きになったとしても

それを「継続する」って、できないよねぇ。

この批判、その通りだなって思う。

目の前の仕事を、3年、5年、10年と

「継続する」ためには

「自分は “なぜ” この仕事をするのか?」

という理由、もっというと “意図” があるかないか。

これが決定的に重要だ。

具体的な仕事、というレベルではなく、

「この社会はどういう方向に向かっているのか」

それに対して、自分はどう考えるのか。

そして、自分として

この社会はどうなっていくことが望ましいと考えるのか。

かなり抽象的だが、この辺のことが明らかになっていると、

目の前の仕事に対する向き合い方も変わってくる。

私の言葉でいうと「自分軸」をもてているかどうか。

そして、自分がやっている目の前の仕事が

その「自分軸に沿っているという感覚」を

もてているかどうか。

もし、その感覚を持てていれば、

目の前の仕事を「継続する」ことができると思う。

だから、これからのキャリア教育は

この「自分軸を育てる」という方向に

注力されるべきだと思う。

でもこれ、やってないよねぇ。

自分に合った仕事を見つけて(決めて)

その仕事を目標に努力する、

みないなことしか、やれてないと思う。

仕事なんて、これから5年、10年で大きく変わる。

今ある仕事だって、なくなるかもしれない。

いや、新しい仕事を自分がつくる、

くらいの気概がないと、

これからの社会の大きな変化にはついていけない。

そんなことを考える、今日この頃。