評定について考える

今回は「学校における評定」について考えます。

 

評定の意味をここでは「決定した成績」とします。

学校では、様々な評価を総合して最終的に通知表等に記載する「5・4・3・2・1」や「S・A・B・C・D」などを指します。

 

この「評定」。教科であれば、教科担任がつけます。

そのクラスの担当の教員が、授業をし、テストをつくり、採点して評価する。子どもの授業中の様子を観察して評価する。提出物等を読んだり見たりして評価する。それらを総合して、一人ひとりの子どもに「評定」をつけます。

 

でもこれ、おかしくないですかね?

だって、「客観性」がどこにもないじゃないですか※。

 

「学習指導要領に基づいて…」とか「規準を定めて…」とか「ルーブリックを使って…」とか、いろいろ言っていますが、要するに、その子どもの最終的な「成績の決定」を一教員の主観で行っていることになりませんか。

 

例えば、英語検定や簿記検定等と比較するとわかりやすいと思います。

「英検2級」という資格。「日商簿記3級」という資格。

その資格を取りたい受験者は、受けた試験の結果を「合格」か「不合格」かで知らされます。そしてそこには、受験者に対する、ある種、客観的な基準(合否を分ける線引き)があるはずです。

 

私は、以前、日商簿記3級の試験を受けたことがあります。

〇〇簿記専門学校に通いました。

専門学校の教員は「何をどこまでやれば3級に合格できるか」を熟知し、わかりやすく、楽しく、丁寧に授業をします。試験前には何度も模試を繰り返し、できていないところを個別にフォローしてくれました。

結果は合格。

その教員には今でも感謝しています(ありがとう)。

 

こういうことって、普通の学校で、できないですかね?

 

例えば、「中学校数学3級」という資格がある。

数学だけでなく、あらゆる科目に「中学校〇〇■級」というのがあって、

全国の子どもは、3級以上を〇科目以上とると中学校を卒業できます、

みたいな…

 

自分で書いていて、この提案のインパクト、すごいなって思う。

すごい反発がきそう…(怖い)

 

だって、今の学校文化、学校秩序。確実に壊れますよね。

教員から評定権を奪うわけだから…

 

私は以前、高校の教員でしたが、ある同僚はこの評定権のことを

教員にとっての「基本的人権」だと言っていました。

 

人権を奪う気はないですが…

 

でも、授業を担当する教員(教える人)と評定者が一緒っていうのは、

どう考えてもまずい気がします。

 

だって、子どももその保護者も、言いたいことがあっても

(悪い評定をつけられたくないから)なかなか言えないですもん。

言うと、モンスター〇〇とか言われて問題視されるし…

 

本当の問題は何か(以下、まとめ)。

学校では「この教科ではこれを教える」という内容は明確だけど、

「何がどこまでできればOKなのか」という基準が、客観的な形で示されていません。

評定は個々の教員にゆだねられている。

だから、子どもは「何も身についていなくても」進級・進学する(できてしまう)。

四則計算ができない中学生、アルファベットが書けない高校生が、生まれてしまう。

ということです。

 

この問題の解決方法の例は、上に示しました。

一度、学校教育に関わる様々な方と、このテーマで対話してみたいです。

 

※客観性がないから、教師間によって、学校間によって、地域間によって、評定の規準はバラバラです。そのことが、様々な問題を引き起こしているはずですが、それについては別の機会に。