寺子屋というシステム

江戸時代、日本には、「寺子屋」があった。

明治になって、近代化が進むと、

徐々に、「小学校」に取って代わられた。

寺子屋と近代の小学校。

その一番の違いは、

「自学自習+個別指導」と「一斉指導」との比率である。

寺子屋の指導方法は、そのほとんどが

「自学自習+個別指導」であった。

(一部、一斉指導を導入した寺子屋もあった。)

一方、近代の小学校の指導方法は、そのほとんどが

「一斉指導=一斉授業」である。

もちろん、宿題などで自学自習が促されることもあるが、

あくまでも、「一斉授業」が教育の基盤であって、

自学自習や教員による個別指導は補助的な位置づけである。

そしてこうした指導方法は、小学校だけでなく、

中学校、高校、大学、入社後の新入社員教育まで続く。

 

今、その転換が求められている。

「新しい教育を!」と叫ばれる昨今ではあるが、

何のことはない。寺子屋の指導方法にもどればいいのだ。

ただ、残念なことに、

教育の「個別最適化」が必要、という話はあっても

「一斉授業を止めよう」という話はあまり聞かない。

現場の先生方からは、

「もはや一斉授業は時代に合わない」

「矛盾を感じる」

「モヤモヤする」

という声を聞くが、一斉授業を止めることはできない。

なぜか。

それは、「授業をする」=「教育をする」

という大前提が、学校にあるからだ。

法律も、行政組織も、学校文化も、教員養成も、教員研修も

すべてその前提に立っている。

前提を変えたら、大変なことになる(大混乱だ)。

 

私は、大学教員として、日々授業の準備をし、授業を実施している。

学生は授業を受けに教室に来る。

(今はオンライン授業なので、Zoomに入る。)

その目的は主に「単位をとるため」である。

学生は、4年間で124単位をとらないと卒業できない。

だから、授業を受ける。

「どうしたら単位を効率的に、そつなくとれるか」

が学生の関心事となる。

もちろん、「何を学びたいか」「どうなりたいか」に関心が向くよう、

教員である私は、授業内容を考える。

しかし、そこには、大きな限界がある。

「何を学びたいか」「どうなりたいか」は、一人ひとり違うからだ。

本気でそこに取り組むのであれば、

まずは、一人ひとりの話をじっくり聴くことから始める必要がある。

そこで教員がやることは、

カウンセリングであり、コーチングであり、メンタリングだ。

しかし、一斉授業をやりながら、それらの個別支援を行うことは、

基本的に不可能だ。

(一人の話を集中して聴いているときに、

クラス全体がどうなっているかを把握することは難しい・・)

では、どうすればよいのか。

答えは簡単だ。

単位で(一斉授業で)学生の学習を管理することをやめればいい。

個別指導・個別支援を、大学教育の基盤にすればいい。

学生は個々の授業の単位取得に縛られず、自由に学びたいことを学び、

教職員はそれを支援する。

どうしても学んでほしいことは、一斉指導の場面をつくってもよいが、

そこに参加するかどうかは、基本的に学生の自由とする。

では、教育の質保証はどうするのか。

それは、ペーパー試験、実技テスト、レポート、論文、口頭試問などで

一定の基準を設ければいい。

「ここは最低限、クリアしてくださいね」と。

クリアできないときは、何度でもチャレンジできるようにする。

一言でいうと、「寺子屋大学」になればいい。

 

今、行政や大学も、個別指導・個別支援の重要性に気づき、

その必要性を訴えつつある。

学生が学習を自己管理し、主体的に学ぶことが望ましいのは明らかだし、

そうなるための、指導や支援、サポートも必要だから。

カウンセリング、コーチング、メンタリング等に注目する人も増えている。

しかし、「授業をする」=「教育をする」という大前提に手を付けずに、

個別指導・個別支援を強制的に行えば、その施策は必ず破綻するだろう。

(大前提と具体的な施策が矛盾するからね。)

個々の施策を考えるより先に、システム自体を見直すこと。

今、何よりも必要なのは、そこだと思う。