探究する、ということ

探究学習がはやっている。

高校では「総合的な探究の時間」が始まるらしい。

「先生から教えてもらう」から「自ら学ぶ、探究する」への転換。

 

では、「探究」とはなんだろう。

 

仮に、「〇〇とは何か」という探究を始めるとする。

〇〇には、愛、幸せ、自由、などを当てはめてみる。

 

例えば、「幸せとは何か」にしよう。

「~~のときが幸せ」「~~になったら幸せ」「~~が手に入ったら幸せ」

いろいろやってみるとわかるが、

「幸せ」は実は「幸せでないもの(こと)」との比較で成り立っている。

 

「ほっとできたときが幸せ」とは、

「ほっとできなかった」つまり「慌ただしく過ごした時間」からの解放、

という意味だとわかる。

ずっと「ほっと」していることはできないし、仮にできたら「幸せ」を感じない。

 

すると、「〇〇とは何か」の探究とは、

「〇〇と〇〇でないもの(こと)」との【境界線はどこか】を、様々な場面・状況に当てはめて考えてみることだ、となる。

 

探究とは要するに「境界線を探る営み」である。

 

かつて、孔子は「知る、とはどういうことですか」と問われたとき、

次のように答えたという。

 

「知っていることを知っている、といい、

 知らないことを知らない、という。

 これが、知る、ということだ」

 

また、福沢諭吉はその著書の中で、次のように書いた。

 

「自由は不自由の際に生ず」

 

知れば知るほど、知らないことが増える。

不自由さを自覚してこそ、自由に探究することの意味や価値がわかる。

 

それが、「探究」学習である。