どこから始める?

今から10年以上前の話だが、

某国立大学の教育学部で、教育方法に関する授業を

非常勤講師として担当したことがある。

当時から、教師の多忙化は問題になっていた。

学校の教師は、授業だけでなく、生活指導、部活動、

行事の準備、地域活動等、様々な仕事に追われ、

本当に「ブラック」な働き方をしている(場合が多い)。

このような現状を踏まえたうえで、

私は学生たちに、これからの教師の望ましいあり方として、

次のような話をした。

 教師は、一人の普通の労働者として

「教える」技術の専門家になった方がよい。

何でも屋になってしまうと、何のために、誰のために

働いているのかわからなくなっちゃうから。

そこで例えたのが、スポーツジムのインストラクターだった。

エアロビクスでもヨガでも、インストラクターは、

明るく元気に、限られた時間の中で参加者が楽しませながら

その分野に入り込めるよう、様々な工夫をする。

そして、指導するための技術を磨き続ける。仕事として。

そういったあり方が今後、学校の教師にも求められる、と語った。

そして、この話に対する学生の反応がとても興味深かった。

学生たちは猛烈に反発してきた。

彼らの主張はこうだった。

「私たちが目指している仕事を、

スポーツジムのインストラクターと一緒にしないでほしい。」

「私たちは、子どもたちを教え導く、という崇高な仕事をするんだ」

まぁ、要約するとこんな感じだった。

私は、正直、あきれた。

こういう、教師を聖職とする見方への違和感はもちろんだが、

インストラクターを見下す考え方、価値観に驚いた。

(そこに無自覚なことが一層腹立たしい。)

でも、こういう考え方って、今でも教育学部や学校現場には

きっとあるんだよね。

確かに、教育という仕事には創造的な部分、ロマンがある。

子どもの成長を見つめながら寄り添うことの尊さがある。

お金のために働いてるんじゃない、という自負も

教師にはあるかもしれない。

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でもさぁ、そういう、

見方によっては「おごり」ともとれる教師のあり方が、

ブラックな職場が存在する一因になってるんじゃないかなぁ。

ただ、これはもちろん、教師だけの責任ではない。

教育行政に携わる人々、保護者、もっといえば社会一般に広がる

「教師は子どもたちにために(無制限に)がんばるべき」

という「べきべき」論が、教師を苦しめているという側面がある。

じゃあ、解決策は?

つきつめると、私はこの問題を考えるために、

このブログを始め、書き続けてきた気がする。

そして、今、思うこと。

教師は、日本の教育、教育行政、地域、学校、学年、クラス等、

自分を取り巻く様々な要素から、

一旦、距離をとった方がよいと思う。

まずは、自分を守ろう。

ブラックな職場で、精神を病んだり、

燃え尽きたりするのはもうやめよう。

一人の普通の労働者として、

やれることはやるけど、やれないことはやらない。

あまりにも無茶な要求がきたら拒否する。

それが認められないなら辞める(ことも覚悟する)。

そう、一人の人間として、自分らしく幸せに生きる。

そこをまず、第一に考えることからすべてが始まる。

自分が自分らしく存在していない人が、

子どもが自分らしくいて安心できる場をつくることはできないから。