授業は教員のエゴ?

ずっと、疑問に思っていることがある。

「一斉授業って、教員のエゴじゃないの?」

学習指導要領、それに基づいてつくられた

教科書を使って、教員は一斉授業を行う。

確かにそれは制約かもしれないが、

授業づくりにおいて、かなりの裁量権を教員は持っている。

教員は、一斉授業を自由に組み立てる。

そこに、教員のやりがいはあるし、

そこに可能性を見出して、教員を目指した(目指す)人も多い。

でもさぁ、

教員が、教科書を使って伝えたいこと、

その「思い」みたいなものって

一つの個性の発揮だから、

当然、「それ、受け取りたくない(聴きたくない)」という

子どもがいても不思議ではない。

いや、教員が個性を発揮した授業をすればするほど、

それに合わない子どもは、当然、いるはずなのだ。

でも、合わないからといって、

「この授業、私には合わないので受けたくありません」

という権利を、多くの場合、子どもは持っていない。

こういう状態って、ほっておいて良いものだろうか・・

 

教員の個性は、その「思い」だけでなく、

一斉授業において、次のことに現れる。

① 授業のねらい(方向性)

② 教材、教具

③授業展開の流れ

④授業の難易度

⑤演習の進め方、技法

⑥学習の振り返りの仕方

⑦フィードバックの仕方

教員は、これらのことについて、

事前に考えて授業をする訳だが、

一クラス40人の子どもがいたとして、

その全員に合わせた授業をつくることはできない。

だとしたら、教員の一斉授業の進め方に合わない、

ついていけない、あるいは簡単すぎてやる気にならない

子どもの学習権はどうなるのだろうか?

一斉授業をすること自体が、そもそも教員のエゴ(我がまま)

なんじゃないだろうか?

少し過激な表現を許してもらえれば、子どもにとって

一種の暴力といえなくもない。

こうした問題は、学校教育を一斉授業を前提に構築している限り

永遠のついてくると思う。

もちろん、問題意識をもって、こうした問題への解決策を

考えた人たちはいた。

たとえば、古いところでは

大正自由主義教育があげられる。

海外では、ドルトンプラン、イエナプランなどがある。

しかし、どんなに一人ひとりの

子どもの自由を保障する教育を考えたとしても

教員が教育プランづくりを手放さない限り、

そこにはやはり暴力性がつきまとう。

(どんなプランにも合わない子どもはいるから)

教育とは、そもそも暴力なのかもしれない。

ただ私は、教員がエゴを手放し、すべて

子どもの自由に任せればいいと思っている訳ではない。

そんなことをしたら、そもそも「学校」が成り立たないだろう。

大切なのは、教員が

「自分がやっていることは暴力かもしれない」

「自分は権力を振り回していないだろうか」

ということに、自覚的であることだ。

その自覚があれば、教えることにも学ぶことにも

謙虚であり続けることができるだろうし、

一斉授業も「あまりひどいことにはならない」。

できることはできるし、できないことはできない。

そう開き直って、授業づくりを可能な限り、時代に合った

洗練したものにしていく。

それが今、教員にとって、大切なことだと思う。