「対話」とは何か

長年、学校現場で働いてきて、会議や授業で決定的に欠けていると感じるもの、それは「対話」である。学校現場に必要なものは、数多く提案されてきたし、今後も提案されるだろう。しかし、「対話」だけは、導入されそうにない。なぜなら、「対話」がないという自覚がほとんどの人にないからである。
「対話」とは何か。私が考えた最もシンプルな定義は「答えのない、本音の話し合い」だ。どういうことか、この定義を分解して説明する。

 答えがない。もう少し詳しく説明すると、答えが出ても答えが出ても、そこで終わりにせず、「その学びは日常とどうつながるか」「それが成立するのはどんな場合か」等を問い続ける姿勢をもつ、ことだ。
 
 例えば、算数で1+1=2を学ぶとする。
 その学びは日常とどうつながるか。
 足し算。これは偉大な発明である。日常生活で足し算を使わない日はない。「今日はどんなことに足し算を使った?」「このあと、どんなことに足し算を使いそう?」こんな問いかけを楽しむ姿勢が学習者に必要だ。
 
 もし、今日学んだことと日常とがつながらなかったら? それこそが発見だ。そして探究の種である。例えば「分数のわり算」なんかいい例だ。 「こんなの、日常で使わない」というつぶやきが教室で聞かれたらチャンス。「分数のわり算」は日常とつながるか、調べて考えてみよう! もしつながったら(つながらなかったら)、その考えをみんなに提案し議論しよう!
 
 その際、大切なのは、「本音」を出すことだ。自分が本当に信じていること、大切にしているものの見方・考え方を率直に相手へ提案する。聞く側は、それに対して質問や反論をする。わからなかったら「その説明ではわからない!」と正直に言おう。すると、わかってもらえない、意見が衝突する、などがきっと起きる。
 
 しかし「本音」でぶつかる気概が双方にないと「対話」にはならない。なぜなら、問い続けるためには、「気概」つまり一定以上の「熱量」がその場に必要だから。そして、「熱量」がありすぎても感情が全面に出てしまうのでだめ。従って、その「熱量」や議論の方向性を上手に調整するファシリテーターがいた方が「対話」は成立しやすい。

 さらに、1+1=2を疑ってみる姿勢も必要である。
 1+1=2が成立するのはどんな場合で、成立しないのはどんな場合か。りんご1個とすいか1個を足して2個としてよいか? ねんどの固まり1個と、ねんどの固まり1個をくっつけて1個の大きなねんどにした。1+1=1ではないか?等々。問いは果てしなく続く。

 と、これだけをみても、学校現場に「対話」がないのは(その理由も)わかってくるだろう。

 こんな面倒なこと、やってられない!のだ。

 しかし、今流行の「対話」の本質はこんなことなんじゃないかなぁ。泥臭く、ねちっこく、そして素手でとことん考えあうこと。