学校の本質

 学校は何のために存在するのか。


 荒く言って答えは二つある。
 ①社会のため。未来に向かって社会を維持できるように、有用な人材を育てる。
 ②個人のため。子どもが将来、自由に生きられるように、必要な能力を育てる。
 

 それぞれについて、もうちょっと説明する。
 ①について。今の社会は○○○だから、△△△な能力が必要だ。未来は□□□社会になるから、▽▽▽な能力が必要になる。だから、学校では~~~を教える必要がある。こんな考え方だ。
 ②について。子どもが将来、自由に生きるためには、まず、本人が自分はどんなことに興味・関心をもち、何をしたいかについてじっくり向き合う必要がある。一人ひとりが置かれた環境やそれぞれがもつ能力や適性は違うから、それらに応じた教育、大人の関わりが(特に学校で)必要だ。こんな考え方だ。
 ①と②は「両立」しなくもないが「対立」する要素もある。もちろん、その点について議論してもいいが、今回はちょっと別の角度から学校の存在理由について考えたい。


 一言でいうと、学校って「子どもを選別する機関だよね」ってことだ。学校は子どもを選別するために存在する、なんて言うとめっちゃ怒られそうだけれど「学校の本質」なんじゃないかなぁ。
 私は教員っていう仕事を長くやってきたが、間違いなく言えることが一つだけある。それは、教員は「いい授業」をしなくても首にならないが、「評価をつける」仕事を拒否したら、確実に首になる(そこにいられなくなる)ってことだ。子ども一人ひとりの「関心・意欲・態度」といった客観的に「評価をつけられそうにないこと」にも(必要であれば)評価をつける。評価をつければそこに序列ができる。序列なんてつけたくないと思っている教員も、評価をつける仕事を拒否できない以上、序列づくりに加担していることは疑いようがない。


 子どもが学校でまず体験するのは教員から「評価される」ってことだ。子どもはそのことを小学校で繰り返し体験し、中学生や高校生にもなれば「教員って自分たちを評価する人だよねぇ」ってことになる。


 評価され序列化されることに慣れると今度は受験という名の「選別」が待っている。社会では、学校そのものが評価され、(偏差値で)序列化されている。○○高校の生徒、△△大学の学生といったレッテルが貼られ、子どもは自分が「選別」の対象であることに、否応なく気づかされる。それが受験というシステムだ。


 ではなぜ社会には「選別」が存在するのか。
 だれもがなりたい仕事に就ける訳ではない。だれもがほしいだけの収入を得られる訳ではない。だから、多くの人はどこかで夢や希望、目標を諦めて「分に応じた」仕事、立場につく。この、ある意味どうにもならない現実を大人になっていきなり突きつけるより、子どもの頃から慣れてもらった方が(ちょっとずつ振り落としていった方が)社会からみたら効率がいいんだろう。そしてきっと本人のショックも少ないよね。とまぁ、こんなことなんだろうと思う。


 この理解が本当だとすると、教員がどんなにがんばって、子どもにどんな能力をつけようとも(例えば全員が「読解力」や「批判的思考力」を身につけても)「選別」はなくならない。新たに「選別」が可能になる能力が発見され、教員はそれを教えるように(その軸で子どもを評価するように)上から指示されるだけだ。


 教育改革が声高にい叫ばれ、理想的な教育プランがどれだけ示されようと、教育が良くなっているようにみえない(たぶん良くなっていない)のは、こうした理解(学校の本質)からみんな目を逸らしてるからじゃないかなぁ。


 「じゃあ、どうすればいいのさ!」って聞きたくなりました?
 それは、これから考えます…