主体的とは?

 主体的に学ぶ、主体的に働く、というときの主体的とは何か?

 

 「自分から進んで」やること、と答えるかもしれない。しかしそれは「自主的」であって「主体的」ではない。やることが決まっている状況で、指示や命令、つまり強制されなくても取り組む、というのは「自主的」である。

 何をやるかを「自分で決める」こと。これは、一見「主体的」だ。しかし、そこに行動が伴わなかったらどうだろうか。「これをやる!」と決めたけれど、行動しない人のことを「主体的な」人とは言わない気がする。

 

 つまり、「主体的」とは、何をやるかを自分で決め、自分から行動を起こすこと、といえるかもしれない。

 しかし、ここに落とし穴がある。

 

 何をやるかを自分で決め、自分から行動を起こしているように見えても、「決めなくていい」、「やらなくていい」という自由が保障されていない限り、それは「主体的」ではない。それは、やっぱり「自主的」なのである。

 

 例えば、こんな感じだ。

 学校の授業で「主体的」に学ぶ、はあり得ない。なぜなら、授業は基本的に参加しなければならないものであり、何か成果物(アウトプット)を出さなければいけないものだからである。参加しなくてもいい、成果物も特に出さなくていい、となったら、それは授業ではなくなってしまうだろう。

 しかし、「何もやらなくていい」という自由が保障されて、その中で「やる」と決めて「動く」ことが「主体的」だ。従って、「(授業の中で)主体的に学びなさい」という表現は、論理的に矛盾していることになる。

 

 会社の仕事でも同じだ。最近は、マネジメント層も「人は指示・命令では動かない」ことに気づき始め、従業員が「主体的」に働くことを望んでいる。従って「何をどうやるかは自分たちで決めていいよ」と従業員に伝える。しかしそこに「やらなくていい」自由はない。やらなくていい自由のないところで人は「主体的」にはなれない。

 

 しかし、マネジメント層は従業員に「やらない」という選択をされると困る。特に危機的状況ではそうだ。「こんな状況なんだから自分で判断して動け!」となる。そこでもし、従業員が「動かない」という選択をしたら、マネジメント層は烈火のごとく怒り出すだろう。特に、従業員が「現状の問題点を指摘した上で改善が必要だ」と言ったのに「私がやります!」と手を挙げなかったら大変だ。「問題がわかっているのに動かないのは無責任だ!」とブチ切れる。そうなると従業員は委縮する。何も言えなくなる。そして、「何も言わない」と「その姿勢こそが無責任だ!」とさらに従業員を追い詰めることになる。

 

 というような訳で、人が「主体的」になれる場というのは、案外少ない。もしかしたら、今の社会に人が「主体的」になれる場は「ない」かもしれない。

 特別な「安心・安全な場」を用意しない限り…