宗教改革が起きる

私は以前、高校の教員(公民科)をしていた。
そのとき、同僚の教員(地歴科)に質問した。
「歴史の教科書を生徒が自分で読んで理解したら、歴史の授業、いらないんじゃないですか?」
今思うと、とんでもないことを聞いている。「あなたの仕事、いらないですよね」って言っているようなものだ。
そしてこの質問、「歴史」のところを教科書がある別の科目に置き換えることも可能である…
同僚の教員は答えた。
「自分で読んで理解するのは生徒には無理なんだよ。ぼくが説明してあげないと…」
そうなのかなぁ。
私は疑問に思ったが、それ以上は質問しなかった(したら喧嘩になる)。
あれから25年が経った。
今、ビジュアルに優れ、かつ、わかりやすい教材が世にあふれ、Youtubeでは、塾講師、学者、芸人らが、軽快な口調でわかりやすく魅力的に知識を解説する。学校の授業を模した教育番組も山のようにテレビ等で提供されている。ICT教材としてアダプティブラーニングなるものまで登場し、学習者にとって必要な学習分野をピンポイントで示し、丁寧な解説付きでサポートしてくれる…

そこで今、改めて問う。「学校の授業って必要なの?」

実は、この事態を考える上で参考になる出来事が、世界史上、500年くらい前に起こっている。
宗教改革だ。
当時、カトリック教会は、免罪符(これを買うと罪が許され天国に行けますという保証書)を売っていた。免罪符の発行に疑問をもったルターは、カトリック教会と対立する。ルターは、聖職者や神学者だけが読むことのできたラテン語聖書でなく、ドイツ民衆が読むことができるドイツ語聖書を原典から翻訳した。

私なりにこの出来事を解釈すると、
「民衆が聖書を自分で読んで理解できたら、
教会で聖職者に説教してもらわなくても信仰ができます」
ということだ。
これを現代に置き換えると、
「子どもが教科書を自分で読んで理解できたら、
学校で教師に授業してもらわなくても学習ができます」
である(なんと似ていることか!)。

学校の授業はいらない。これに、反論できる人、います?

ただ、この意見には補足が必要である。
次のことは、子どもにちゃんと教えた方がよい。
「きく技術」、「よむ技術」、「かく技術」、「はなす技術」。
そして、「学ぶ技術」、「教える技術」、「問う技術」。
これらが子どもに身についていたら、教師が「自分が知っていることを話す、教える」という意味での授業は、もはや必要ない。子どもは自分たちで勝手に学び始める、と思う。

さて、これで、どうでしょう?