履修主義と修得主義

物事には根本の原理、考え方がある。

教育においては、何をもって学習者が「学んだ」ことにするか、である。
本の学校教育の場合、授業を「履修」した(受けた)ことをもって、「学んだ」ことにしている。履修主義だ。未履修問題というのは、授業を履修しないと「学んだ」ことにならないから、発生する問題である。極端なことを言うと、教室で椅子に座って黙って教師の話を聞いていれば、学習者は(授業の内容を理解していなくても)学んだことになる。

これと対極の考え方は、修得主義である。
学んだことを本当に「修得」できているかどうか、知識及び技能をテストする。一定の基準に到達していないと、未「修得」となる。ただし、その基準は明確であり、そこに到達するまで、何度でもチャレンジできる。

いまでもそうだ、という人がいたら、それは違う。もし、日本の学校が修得主義で組織されていたら、都道府県の位置がよくわからない中学生、アルファベットが書けない高校生、二次方程式の意味がわからない大学生はいないはずである。
「修得」はしていないけれど、授業を「履修」したら上の学年にあがる。卒業する。多くの子ども達が、授業の内容がわからなくても教室の椅子に座っているだけで「学んだ」ことになっている。

先日、ある専門学校の先生が言っていた。「学生が“割合”を理解していない。算数から教えなければならない」と。

それでは、履修主義から修得主義に変えたらどうなるか。授業なんて受けなくても、自分で理解できるのならそれでいい。逆にマンツーマンじゃないと理解できない子どもは、とことんサポートする。

そう。授業なんてしなくていい。個々の子どもの学習が成立していればいいのだ。授業が成立しなくても… ただし、その際、何をどうできるようになれば、その分野の知識及び技能を「修得」したことになるのか、その基準を明確にしておく必要がある。

そして、テストの評価は「合否のみ」である。最低限の基準がクリアできているかどうかだけが問題で、それがわかればよい。

よく、学習指導要領が学校教育を縛っている、という話を聞く。しかし、学習指導要領は最低基準であって、それをクリアしていればあとは自由という、とてもよくできたものだ。

問題は、何をどうできるようになれば、学習指導要領の内容を「修得」したことになるのか、その基準が明確でないことだ。基準をクリアしたかどうかの判断は、現在、授業者である個々の教員に委ねられている。客観性が担保されていない。
そこが問題だ。日本の学校は履修主義だから、そもそも教員は学習指導要領を読まない。教科書に沿って授業をしテストをし評価する(序列をつける)。

学習指導要領の内容を「修得」できたら、あとは何を、誰から、誰と、いつ、どこで、どう学んでもいいよ。学校にいる必要はないし、授業を受ける必要もない。ただし、「修得」できるまでとことん学んでもらう。クリアできるように、何度でもテストにチャレンジしてね。

もし、こんなシステムになったら、日本の学校教育は変わる。根本から変わると思う。