哲学する

哲学が好きだ。

 

哲学を教える、じゃなくて、
哲学を、児童、生徒、学生とともに学ぶことができたら

どんなにしあわせだろう。

 

私は以前、高校の「倫理」の教員だった。

 

「倫理」という科目。

教科書をご覧いただくとわかるけど、哲学史を学ぶ科目になっている。

哲学者たちが古代からどんなことを考えてきたか、延々と書かれている。

 

これって「哲学史ダイジェスト」だよね、って思う(哲学じゃない)。

 

じゃあ、哲学って何なの?

 

辞書(デジタル大辞泉)の説明はこう。

《philosophyの訳語。ギリシャ語のphilosophiaに由来し、

sophia(智)をphilein(愛する)」という意。 

 

「智を愛する」、つまり「愛智」。

哲学じゃないくて、「愛智学」って訳せば、よかったのに~

 

でも、「愛智」でもわかんないですよね。

私流に解釈すると、こう。

《「知りたい!」「わかりたい!」という欲望それ自体。》

 

この「知りたい!」「わかりたい!」の対象は

必ずしも知識・知恵とは限りません。

 

(同性・異性を問わず)大好きな人に対して

「あなたのこと、もっと知りたい! わかりたい!」

 

この欲望、それは愛智、つまり哲学なのです ♪♪ルンルン

 

えーっ、そんなポップなイメージ、哲学にないなぁ。

だって大学の哲学研究室って暗かったよ・・・

 

そう、私もその暗い研究室で哲学を学んだ一人です  (;^_^A

 

けど哲学、じゃなくて愛智という営みの根っこの部分を探っていくと、

「人が人を好きになる(ワクワク~)」

という、根源的な欲望にたどり着くです!

 

そして、学校では、この愛智、学ばないですね。

 

「愛智」なんて科目、ないですし・・・

(「倫理」は、最初に書いたように、哲学史ダイジェスト。)

 

人を好きになること、そして、その人を通して、

新しい世界、新しい知識・知恵を求め、旅すること。

 

それが、愛智。

 

何かを教える前に、そこから始めた方がいいんじゃないの?

っていうか、そこからしか、始まらないんじゃないの?

 

子どもたちはよく、

「こんなこと学んで何になるの?」

って大人に問います。

 

それはそうですよね。

だって、本人に「知りたい! わかりたい!」がないのに

「これを覚えなさい」「あれをできるようになりなさい」って

強制される訳だから。

 

愛智なきところ学びなし、です。

 

愛智を育てること、というより、

教師、保護者、大人が、自分の愛智に正直になること。

そこに向き合うこと。

 

そこからしか、新しい教育は始まらない気がするなぁ。

                         以上