知識とは何か

知識とは何だろうか。

辞書を引くと、次のように書かれている。

 

 知ること。認識・理解すること。

 また、ある事柄について、知っている内容。

  <デジタル大辞泉小学館)より引用>

 

なぜ、今回、この問いを出したかというと、

教科書について考えたかったからである。

 

教科書には、たくさんの知識が書かれている。

学校の授業では、この教科書がある意味、決定的な役割を果たす。

「教科書を教える」、いや「教科書で教えるんだ」とか、

いろんなことが言われるが、教科書に沿って教えることが、

学校の教師に与えられた役割といっても過言ではないだろう。

 

成績評価も「教科書に書かれた知識をどれだけ多く、

正確に理解できているか」でつけられることが多い。

 

そして、教科書で扱われる知識は、多くの場合、

「~は、~である」という形で表現される。

 

この「~は、~である」という知識のあり方。

これってどうなんだろう、というのが今回の問題提起だ。

 

何の脈絡もなく、突然、「~は、~である」と言われ、

それを理解しなさいと言われても、

学習者としては困るんじゃないかなぁ。

 

例えば、数学の公式を考えてみる。

まず、次のような疑問が湧く。

 

その公式は、一体、日常のどんな場面で使われているんだろう。

だれが考えたんだろう。

その人はどんな人だったんだろう。

どうやって思いついたんだろう、など。

 

しかし、このような疑問が、授業で取り扱われることは、まずない。

 

時間の無駄、ということなのかもしれないが、

数学の公式は、公式として、周辺的な知識抜きに

学習者に提示され、理解を促される。

 

だけど、ちょっと待ってほしいんだよなぁ。

 

数学の公式という知識。

 

それが生まれるためには、

だれかの「問い」があったはずなんだ。

 

「問い」がなければ、そもそも調べたり、

考えたり、思いついたり、ということは起こらない。

 

「問い」があり、思考のプロセスがあり、

様々な試行錯誤があり、その中で多くの答えが

生まれては消え(消され)、今、生き残っている内容が

教科書に書かれているんだと思う。

 

だから本当は、教科書には「問い」が書かれるべきなんだ。

 

そして、その「問い」にはどんな答えがあり、

その答えにたどり着くまでに、どんなプロセス、試行錯誤が

あったかが、書かれるべきだと思う。

 

そうしたら、子どもから、

「こんなこと覚えて何になるの?」

という疑問は生まれにくくなるだろう。

 

もし聞かれても、すぐに答えられる。

「いやねぇ、昔、こんな “問い” を持った人がいたんだよ。

 それは、こんな人でねぇ。おかしいでしょ?

 その “問い”  には、たくさんの答えが提案されたんだけど、

 こんな論争の末に、どうやらこれが正しそう、

 ってことで、今、こんな風に教科書に載ってるんだ」

 

そして、できるなら、この知識は、私たちの生活の中で

「こんな形で、今、使われて(役立って)いるんだよ」

という説明ができれば、なおいいだろう。

 

学習者も納得して、楽しく勉強できそうな気がする。

 

えっ、そんなこといちいち教えてたら、必要な事項を全部、

教えられないじゃないかって?

 

だからさぁ、たくさんの知識なんて、教える必要はないんだ。

 

「知識の捉え方」が身につけば、

学習者は自分で、必要な知識を必要に応じて獲得できるようになる。

 

それでいいんじゃないかなぁ。

 

ということで、以上をまとめると次のようになる。

 

「知識とは、問いに対する答え。そして、答えにたどり着くまでの過程(プロセス)」

 

あぁ、教科書を全部、書き換えたいなぁ(笑)