ゼロスタート

知り合いの小学校の先生から

興味深い話を聞いた。

プログラミングの授業について。

子どもたちは、

とても生き生きと活動する、らしい。

プログラミングは、初めての学習(ゼロスタート)。

先生もよくわからないから、あまり口出ししてこない。

答えも決まっていないから、

自分たちで決めたことが、そのまま通る。

うまくいかなかったら、自分たちで考えて修正し、

再度チャレンジできる。

こういう条件が満たされたとき、

子どもたちは生き生きする。

一方、算数の授業について。

子どもたちはボーッとして目が死んでいる、らしい。

算数は、積み重ねの学習。

教員が答えをもっていて、あるいは教科書に書かれていて、

教員はそっちに誘導しようとする。

自分で考えた答えが、間違いだと指摘される。

正解が多いと高く評価され、間違いが多いと評価が下がる。

この繰り返し。

こういう条件のとき、子どもたちの目は死ぬ。

とってもわかりやすい。

この原因は、一言でいうと、

「そこに、自由があるか、ないか」。

プログラミングの授業には自由があり、算数にはない。

自由を奪われると、子どもたちは、

いや、人は、動物は生気を失う。

そこで私は、このエピソードを話してくれた

小学校の先生に聞いた。

「算数の授業で子どもたちが生き生きするには、

どうしたらいいと思いますか?」

その先生、「うーん・・」と唸ったまま、考え込んだ。

明確な答えはでなかった。

でも、ここまでの考察から、私の中で答えは明確。

「自由感のある授業」を創作すればいい。

そのポイントは「ゼロスタート」。

決まった答えのない世界で、遊んで楽しめること。

失敗しても何度もやり直せる、という環境。

これだ。

失敗から学ぶ。

現実に起きたこと、起きていることから、

何をすればよいのか、自分の頭で考える。行動する。

起きていることを自分の目で観察する。心で感じる。

自分の心、内面で何が起きているのかも感じて味わう。

そうすると、見えてくる世界がきっとある。

一つ具体例をあげる。

私は今、大学の授業で、

SDGs(持続可能な社会を可能にする開発目標)

を扱っている。

私は、講義はほとんどしない。答えももっていない。

学生たちが、自分たちで「問い」をつくり、

自分たちで「答え」を考える。

ときには、他者に問いを投げかけ、

ときには、他者からの問いに答える。

「これは今の自分には答えを出せない」

ということも「発見」する。

「答え」が見つかったと思っても、

次の瞬間、新たな「問い」が生まれる。

そうしたことを、繰り返していく中で、

場が自由になってくる。

自由感のある授業。

何よりいいのは、授業者の私がとても楽しい、ということ。

自由感のある授業は、学生たちだけでなく、教員も自由になる。

そこが本当に素敵だ。

これって「持続可能な」学び方、働き方なんじゃないかなー

そんな思いに満たされる今日この頃。