苦手な人、嫌いな人

突然ですが、
仕事やプライベートで、

苦手な人、嫌いな人はいますか?

私はいます(笑)

というか、社会人になってから、

この問題でずっと悩んできました。

職場が変わっても、

同じような人と同じような関係になり

同じような悩みをかかえてしまう・・

最近も、職場のリーダー(私が苦手で嫌いな人)から

無理やり仕事を押し付けられそうになり、

どうしたものかなぁと困ってました。

何が困るかというと、その苦手で嫌いな人のことが

頭から離れないのです。

その人と一緒にいなくても、その人のことが

いつの間にか頭に忍び込んでいて、

こう言えばよかった、あぁすればよかったなど、

後悔の念が次々と湧き上がってくる・・

そんなとき、私はどうするかというと、

解決策を求めてYoutube動画をあさります(笑)

すると、
あなたの周りに「苦手な人、嫌いな人」がいたら

「こうすれば解決できます」的な動画が

いっぱいあることに気づきます。

そして最近、ついに、

決定版というべき、すごい動画に巡り合いました!
その動画では、トランスジェンダーの方が

10分程度で、めっちゃわかりやすく、

解決策を提示してくれます。

解決策はズバリ

「その苦手で嫌いな〇〇さんの幸せを願ってください」

でした。

うぇーー、なんじゃそりゃーー

と最初は思いました。

でも、この動画では

なぜ、苦手な人や嫌いな人がいると苦しく、

なぜ、この解決策が有効なのかを

とてもわかりやすく説明してくれるんです。

要点を書くと、

・苦手な人、嫌いな人とは、要するに波長があってない。

・苦手な人、嫌いな人とは、考え方がとても似ているか、

 全く逆であることが多い。
・苦手な人、嫌いな人へのネガティブな感情は、結局、

 自分に返ってくるので、自分自身を貶める。
・ポジティブなエネルギーとネガティブなそれとを比べると
 後者の方がすごく大きい。

ここで、解決策を実践すると、

・苦手で嫌いな〇〇さんのことを考える時間が減る。

・苦手で嫌いな〇〇さんと思考の中でキョリができ、

 物理的に〇〇さんがいなくなる前に、まず思考から消える。

そして最終的には

その苦手で嫌いな〇〇さんが自分の周りからいなくなる

ことになるそうです。

動画の中では、最後に

私はいろんな人にこの解決策を提案し、実践した人から

本当だった!

すごい!

という評価をいただいているので、ぜひ試してみてくださいね

というお話がありました。
「苦手で嫌いな〇〇さんの幸せを願う」

実際に毎日やってみると・・

一昨日、その方と会議でお会いしたとき

苦手!嫌い!という感情が、すごく弱くなっているのを感じました。
会議の中で、以前は対立していたテーマ、案件も

その苦手で嫌いな〇〇さんとの合意点が見出せるような方向に

展開していきました(奇跡!)

いまだに因果関係はよくわからいけど、

実践し続ける価値が証明された感じです。

という訳で、今後も続けていきたいと思いまーす(^^)

以上

 

 

 

 

ゼロスタート

知り合いの小学校の先生から

興味深い話を聞いた。

プログラミングの授業について。

子どもたちは、

とても生き生きと活動する、らしい。

プログラミングは、初めての学習(ゼロスタート)。

先生もよくわからないから、あまり口出ししてこない。

答えも決まっていないから、

自分たちで決めたことが、そのまま通る。

うまくいかなかったら、自分たちで考えて修正し、

再度チャレンジできる。

こういう条件が満たされたとき、

子どもたちは生き生きする。

一方、算数の授業について。

子どもたちはボーッとして目が死んでいる、らしい。

算数は、積み重ねの学習。

教員が答えをもっていて、あるいは教科書に書かれていて、

教員はそっちに誘導しようとする。

自分で考えた答えが、間違いだと指摘される。

正解が多いと高く評価され、間違いが多いと評価が下がる。

この繰り返し。

こういう条件のとき、子どもたちの目は死ぬ。

とってもわかりやすい。

この原因は、一言でいうと、

「そこに、自由があるか、ないか」。

プログラミングの授業には自由があり、算数にはない。

自由を奪われると、子どもたちは、

いや、人は、動物は生気を失う。

そこで私は、このエピソードを話してくれた

小学校の先生に聞いた。

「算数の授業で子どもたちが生き生きするには、

どうしたらいいと思いますか?」

その先生、「うーん・・」と唸ったまま、考え込んだ。

明確な答えはでなかった。

でも、ここまでの考察から、私の中で答えは明確。

「自由感のある授業」を創作すればいい。

そのポイントは「ゼロスタート」。

決まった答えのない世界で、遊んで楽しめること。

失敗しても何度もやり直せる、という環境。

これだ。

失敗から学ぶ。

現実に起きたこと、起きていることから、

何をすればよいのか、自分の頭で考える。行動する。

起きていることを自分の目で観察する。心で感じる。

自分の心、内面で何が起きているのかも感じて味わう。

そうすると、見えてくる世界がきっとある。

一つ具体例をあげる。

私は今、大学の授業で、

SDGs(持続可能な社会を可能にする開発目標)

を扱っている。

私は、講義はほとんどしない。答えももっていない。

学生たちが、自分たちで「問い」をつくり、

自分たちで「答え」を考える。

ときには、他者に問いを投げかけ、

ときには、他者からの問いに答える。

「これは今の自分には答えを出せない」

ということも「発見」する。

「答え」が見つかったと思っても、

次の瞬間、新たな「問い」が生まれる。

そうしたことを、繰り返していく中で、

場が自由になってくる。

自由感のある授業。

何よりいいのは、授業者の私がとても楽しい、ということ。

自由感のある授業は、学生たちだけでなく、教員も自由になる。

そこが本当に素敵だ。

これって「持続可能な」学び方、働き方なんじゃないかなー

そんな思いに満たされる今日この頃。

 

 

ねぇ、休まない?

今回も、小学校の教育実習を経験してきた

学生との会話から。

私: 先生も忙しいけれど、子どもたちも忙しそうでしょ?

学生:そうなんですよぉ。

   いろいろ考えていても、書くのが遅い子とか、

   いるじゃないですか。

   授業中で課題が終わらないと宿題になるんです。

   そういうのが毎時間溜まっていって・・

   その他に、全員に課される宿題もあって・・

私: そういう子にとっては、学校って苦痛の場だよねぇ。

   不登校とかの原因の一つかもしれないね。

学生:「休み時間」でみんなが校庭で遊んでるようなときも

   そういう子は教室に残って課題をやってたりします・・

   見てるとせつなくなります。

私: 自宅に帰っても、そこから塾に行ったり習い事をしたり・・

   小学生も忙しいよねぇ。

学生:はい。「いつ休むんだろう」という感じです。

と、まぁ、こんな会話が続いた。

本当は、理解するのが遅かったり苦手だったり、

表現で躓いたりしてる子どもにこそ、

手厚いサポートが必要なはずだけど、置いてかれる感じになってる。

以下、学生との会話の続き。

私: 学習指導要領があって、教科書があって、

   各教科の年間授業時数が決まってるから、

   子どもの実態に合わせるのって難しいんじゃないかなぁ。

学生:はい。「この単元は10時間で」って同学年を担当する

   先生の間で決まっていると、それに合わせざるを得ません。

   「○○先生、進度、ちょっと遅れてるんで調整してください」

   みたいなことが起こってました。

私: そうなるよねぇ。

   先生が「ここは丁寧に教えたいんだけれど・・」

   って思ってても、なかなかそうはできない。ジレンマだね。

目的と手段の逆転。

本当は、一人ひとりの子どもが、学びに興味をもち、自然な形で

学習習慣を形成することが大事なのに、

決められた時間と作業の流れに追われてる感じ。

しかも、他者との比較、競争のなかで・・

決められた時間の中で作業を終わらせ、成果を出す。

そこに汲々とする感じ・・

これって、社会人も同じですね。

そして、私も確実にその中にいる。

「ダメなやつって思われたくない」

「ここから落とされたくない」

その思いでひたすら「がんばる」。

でも、もうそろそろ、そこから降りてもいいんじゃないかなぁ。

「ダメなやつって思われていい」

「できなくていい」

「休んでいい」

「これ以上は、無理っす」って言っていい・・

世の中、「がんばれ!」「やればできる!」「枠を超えろ!」

「とにかく動け!」「諦めるな!」的な言説に溢れているし、

失敗やミス、足りないところを指摘してボコボコにする言説を

目にすることが多いけど、

なんで、そこまでムキになるのかなぁ。

「いいんじゃない、これで」

「よくやってるよ」

「いいよ、休んで」って、

ときには自分に言ってみよう。

そして、「ねぇ、一緒に休まない?」

 

 

 

 

 

紙と電話

学生から小学校の教育実習から戻ってきたので

様子を聞いてみた。

私: 学校って、今も、紙と電話とFAXで仕事してる

   みたいだけど、どうだった?

           例えば「去年作ったはずのあの書類、どこ?」

   みたいなことが起きてるんじゃないかなぁ。

学生:そうなんですよぉ。

   ちょうど、運動会の時期だったんですけど、

   「あの書類、どこ?」

   「あっ、あれは去年、〇〇先生が作ってました」

   「じゃあ、〇〇先生なら知ってるな」

   「それが・・〇〇先生は今年3月に移動になって・・」

   「えっ、それじゃ、どこにあるかわからないの?」

   「えぇ、どこにファイリングされてるかわからなくて・・」

   「1から作り直しか・・」

   みたいなことになってました。

私: そうなるよねぇ。

   保護者への連絡も紙だよね?

学生:はい。保護者の承認をもらわないと進められないことも

   多くって・・紙で渡して、承認印もらって確認して・・

私: すごい手間だよねぇ。

   やっぱり、連絡を取り合う手段は、今も紙と電話なのか・・

これは、この学生の実習先の話というより、

ほとんどの公立学校の「現状」だと思う。

働き方改革、というのだったら、

まずこういう「現状」を正確に把握し、

「時代に合った」姿に変えていくことが先ではないだろうか。

次は、授業についての学生とのやり取り。

私: 一斉授業ってもう成り立たないんじゃないかなぁ。

   授業内容を全然理解してない子と、とっくに理解してて

   先に進みたい子との差が広がってるんじゃない?

学生:そうなんですよぉ。

   算数で「分数の計算」の授業があったんですけど、

   「通分」の話を最後まで理解できず、奇数と偶数の話だと

   思い込んでた子がいました。

   その反面、「通分」は塾でとっくに理解してて

   計算を解くのも5分で終わり。ずっと

   「次、何をやればいいですか?」状態の子もいました。

私: そうなるよねぇ。

   一斉授業っていうのは、授業内容に何とかついていける

   中間のボリュームゾーンの子たちがいて

   初めて成り立つんだけど、現状は

   全然わからない子と、既にわかっちゃってる子の二極化が

   進んでるよねぇ。

学生:算数なんかは特にそうでしたね。

   能力別の少人数クラスにしても、一人の教員で対応するのは

   無理な状況だと思いました・・

という感じ。

そもそも、一人の学級担任が

国語、算数、理科、社会・・って全部の教科を受け持つ

システム自体がもうとっくに成り立たなくなってる。

さらにそこに、

道徳の教科化、英語教育、プログラミング教育、ICT教育、

GIGAスクール構想って、どんどん上積みされ、

それが全部負担として、担任にのしかかってる・・

最後に学生が言っていた言葉が印象的だった。

「“やりがい”だけではやってけない職場だと思いました」

現状がこのまま続くと、

「教員になりたい、なろう」とする若者は

どんどん減っていくことは間違いない、だろう・・

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

   

正解はどこにあるか

昨日参加した勉強会で。

生徒にテキスト、文章を読む力をどうつけるか、

という話題になった。

そこでの、ある高校の先生(国語科)の発言が印象に残った。

その先生の受け持ちの生徒が

「私のこの読み方でいいかどうか、教えてください」

と聞いてくる。

その先生は

「その読み方でいいかどうかは、自分で考えてね」

ということを伝えたいのだが、どうにも話が通じないらしい。

その先生(国語科)は、そのことでずっと悩んでいる・・

「自分の読み方が正しいかどうか、

他者との対話を通して自分で確かめる」

という経験がない生徒にとって

先生に「何が正しいかを教えてもらう」

というのは、あまりにも自然なことだ。
というより、

何が正しいかは「教科書」や「先生」が決めることであって

「何が正しいか自分で判断する」なんて

きっと生徒は夢にも思わないんだと思う。

「はやく答えを教えてください」

「はやく正解をください」

「どういう方法でやればいいですか」

「どうすればいい評価をもらえますか」

     :

こういう姿勢の人を大量に生み出している

日本の教育って、やっぱ、まずいんじゃないの?

って改めて思った。

だって、それじゃあ、何の力もつかないから。

ここで具体例を一つ。

以前、ある理科の模擬授業を受けたことがある。

授業者の先生は理科教育が専門。

テーマは「水に溶かすと電気が流れる物質、流れない物質」。

最初は快調に授業が進んでいたが、

ある実験のとき、ストップした。

「この物質だったら電気が流れるかどうか」の実験。

具体的には、
①ある物質を水に溶かす。
②その水を溶かした容器の両サイドを+極、-極にする。
③その水の中を電気が通る
④模擬授業の参加者にもわかるようにランプが光る
(光らない場合は電気が通らないことを示す)
ところが、電気を通すはずの物質を溶かした上記の実験で、
ランプが光らない!

授業者はあわてた。

参加者の前で、うろうろ、おたおた・・

参加者はただ茫然と見守る、だけ。

5分、10分、15分と時間が過ぎていく。

結局、その模擬授業は何のまとめもなく、

残念な状態のまま終了。

私は思った。

想定外のことが起きたところで、私たち参加者に

「ランプが光るはずなのに光りません」

「どうしてだと思いますか」

「近くの人と話し合ってください」

こう言ってくれたら、きっと豊かな時間が流れただろうと。

教員だって失敗することがある。

当たり前だ。

そして、

教わる側だって自分たちで考えることができる。
原因を探ることができる。

対話によって解決策が生まれるかもしれない・・

もし、そういうことを教員が信じられなかったら

そもそも

「主体的、対話的で深い学び」なんてできない。

正解を、

教科書や先生から、子どもたちの手に渡す。

そこから、新しい教育が始まる気がする。

 

教師のいらない授業のつくり方

先日、ある講座に参加した。

講座のテーマは、

「教師のいらない授業のつくり方」。

今回は、講座の内容については触れない。

このテーマに関する私の考えを書く。

「教師がいらないんだったら、授業もいらないよね」

これだ。

子ども一人ひとりが、自律した学習者となって

自ら問いをたて、調べ、考えて自分のなりの答えを出す。

その答えをさらに批判的に捉えて、新たな問いをみつけ、

調べ、考えて、・・

こういうことがしつこくできるような子ども。

一人ひとりがそうなったら、教師もいらないし、授業もいらない。

そして、以上のことを実現するためには

「教師も授業もいらない学びのつくり方」について考える必要がある。

今までは、教師が学習指導要領や教科書の内容をもとに

授業、そして「学びのカリキュラム」を考えていたとすると、

それらを一旦手放す。その上で、

「学びは、子ども一人ひとりが、自らの自由と責任で構築する」

という前提をもつ。

「えーっ、そんなことできるの?」

ってなりますよね?

もちろん、いきなりは無理でしょう。

しかし、「主体的、対話的で深い学び」を実現するためには

目標、ゴールとして
「学びは、子ども一人ひとりが、自らの自由と責任で構築する」

を置くことは必須だと思いますけどね。
そして、上記のゴールを目指すやり方は、

大きく二つあることが最近わかってきた。

①従来の学級、(一斉)授業の枠組みはそのままにして、

 学級づくり、授業づくりを上記のゴールを目指して精緻化する

②従来の学級、(一斉)授業の枠組みを疑い、

 評価・評定のあり方、学習単元で学びを構成することを含め、

 今の学校システム全体を子どもたちと一緒に見直す

現状では、①はごく一部の教育関係者には認められても

②は、理解されることすらほとんどないくらい、
異端の発想になるでしょう(笑)

でも、大切なのは②の発想なんじゃないかなぁ。

だって、①はきついですよ、本当に。

確かに、①を、自然な形でライフスタイルとしてできちゃう教員

っていうのも、いらっしゃいます。

でも、日本全国で数人、多くて数十人っていうところでは

ないでしょうか・・

普通の人が、普通の努力で、ワクワクしながら

教育に関われるシステムってどんなかなぁ?

ということを考えた方が、

今のシステムを丸ごと受け入れて、中身を精緻化するより、

ずっと生産的な気がするけどなぁ。

教員の過剰な努力に依存するシステムって、

いつか、いや、もうすでに破綻してると思います。

以上。

レジリエンス

*************************************************

 レジリエンスとは,
困難で脅威を与える状況にもかかわらず,
うまく適応する過程や能力,
および適応の結果のことで,
精神的回復力とも訳される。(コトバンク

**************************************************

 私も、かつての職場で、

かなりストレスフルな状況に置かれたことがある。

先輩から、今でいうハラスメントを受けていた。

個室に呼び出されて罵倒される。

提案書を出しても何度も書き直しを命じられる。

言われた通りにしても、また別の理由で書き直し。

会議では批判され続ける・・

三日間ぐらい全く寝られなくて、精神的にやばくなった。

休職するか退職するか。

決断を迫られた。

そのときは、精神科に通い、抗うつ剤と安定剤を飲んで

3ヵ月くらい耐え忍んだ。

上司に相談して、問題の先輩と一緒だったチームから

外してもらうことで、なんとか生き残った。

まぁ、こういうのって、実は多くの人が経験していたりする。

例えば、こういうとき必要なのがレジリエンス

精神的回復力。

逆境に耐える力、なんて言われることもある。

はっきり言って、世知辛い現代社会で生き抜くために

今、最も必要とされる力なんじゃないか、と思う。

「困難で脅威を与える状況」にあっても

生き残るために準備しておくこと。

差し当たり、思いつくのは次のようなことだ。

①体力、持久力の向上

いざというとき頼りになるのは、やはり体力。

そのために、日々の運動、スポーツジム通い等を

継続しておくことは大切だ。

精神力だけに頼るのは危険だ。

ポキッといったら、取り返しがつかない。

②心のお掃除(ネガティブをため込まない)

ネガティブなものの見方に囚われているとき、

自分一人で悩んでいると、

落ち込んだままになってしまう。

だから、まず、その悩みを自分の外に出す。

私は、今でも定期的にカウンセリングを受けて

悩みを聴いてもらう時間と空間を確保している。

③職場への適応

職場の仕事に精通して、得意分野が増えると、

ストレス自体はかなり軽減される。

新しい仕事を振られると、最初はストレスに晒されるが、

そうした状況はある程度、予測できたりする。

だから、職場がどんな状況になっても

ある程度適応できるように、常にアンテナをはって

学び続けておくことが大切である。

④精神的なゆとり

何事もなく、平和な状態のときは

気持ちをゆったりもって、日々を楽しむことである。

つらいとき、

「ここを乗り越えたら、またあの楽しい日常が待ってる」

と思えると、踏ん張りもききやすい。

 

以上、思いつくことを四つほどあげてみた。

今後どんな状況がきても大丈夫なように

日々、心掛けていきたいと思う。