正解はどこにあるか

昨日参加した勉強会で。

生徒にテキスト、文章を読む力をどうつけるか、

という話題になった。

そこでの、ある高校の先生(国語科)の発言が印象に残った。

その先生の受け持ちの生徒が

「私のこの読み方でいいかどうか、教えてください」

と聞いてくる。

その先生は

「その読み方でいいかどうかは、自分で考えてね」

ということを伝えたいのだが、どうにも話が通じないらしい。

その先生(国語科)は、そのことでずっと悩んでいる・・

「自分の読み方が正しいかどうか、

他者との対話を通して自分で確かめる」

という経験がない生徒にとって

先生に「何が正しいかを教えてもらう」

というのは、あまりにも自然なことだ。
というより、

何が正しいかは「教科書」や「先生」が決めることであって

「何が正しいか自分で判断する」なんて

きっと生徒は夢にも思わないんだと思う。

「はやく答えを教えてください」

「はやく正解をください」

「どういう方法でやればいいですか」

「どうすればいい評価をもらえますか」

     :

こういう姿勢の人を大量に生み出している

日本の教育って、やっぱ、まずいんじゃないの?

って改めて思った。

だって、それじゃあ、何の力もつかないから。

ここで具体例を一つ。

以前、ある理科の模擬授業を受けたことがある。

授業者の先生は理科教育が専門。

テーマは「水に溶かすと電気が流れる物質、流れない物質」。

最初は快調に授業が進んでいたが、

ある実験のとき、ストップした。

「この物質だったら電気が流れるかどうか」の実験。

具体的には、
①ある物質を水に溶かす。
②その水を溶かした容器の両サイドを+極、-極にする。
③その水の中を電気が通る
④模擬授業の参加者にもわかるようにランプが光る
(光らない場合は電気が通らないことを示す)
ところが、電気を通すはずの物質を溶かした上記の実験で、
ランプが光らない!

授業者はあわてた。

参加者の前で、うろうろ、おたおた・・

参加者はただ茫然と見守る、だけ。

5分、10分、15分と時間が過ぎていく。

結局、その模擬授業は何のまとめもなく、

残念な状態のまま終了。

私は思った。

想定外のことが起きたところで、私たち参加者に

「ランプが光るはずなのに光りません」

「どうしてだと思いますか」

「近くの人と話し合ってください」

こう言ってくれたら、きっと豊かな時間が流れただろうと。

教員だって失敗することがある。

当たり前だ。

そして、

教わる側だって自分たちで考えることができる。
原因を探ることができる。

対話によって解決策が生まれるかもしれない・・

もし、そういうことを教員が信じられなかったら

そもそも

「主体的、対話的で深い学び」なんてできない。

正解を、

教科書や先生から、子どもたちの手に渡す。

そこから、新しい教育が始まる気がする。