授業は教員の頭の中の正解を当てるゲーム

授業で哲学対話をした。テーマは「逃げる」。

まずは、学生たちに哲学のイメージを聞いた。

すると・・

 

 かたい

 むずかしい

 「人間とは」「世界とは」等の壮大なことを考える

 答えの出ないことを話し合う

 当たり前とされていることを疑う

 

そうかー
学生たちも結構、いろいろ考えてるなぁ。

そして、哲学対話の経験者はほとんどいない様子。

 

さて実際、対話を始めてみると、
ある学生がこんなことを言った。

 

「むずかしいです」

「答えがイメージできないから、どう話し合っていいかわかりません!」

 

なるほどー

そーだよねー

 

今までの学校の授業では、正解があった。

それは、教科書に書いてあったり、教員の頭の中にあったりした。

自分の中には、ない。

 

哲学対話では、

「正解は、自分の外にではなく、内にある」と最初に伝える。

 

これは学生にとって、
授業観のコペルニクス的転換かもしれない。

 

高校までの授業では、
生徒に話し合いをさせても

最後は教員が、話を「まとめる」。

 

「このテーマはこう考えるものだよ」

ということを、教員が最後に語る。

 

私がこれが大嫌いだった(今も嫌い)。

 

教員が答えをもっているなら、最初に言ってよ!

そう思った。

 

だから、優等生は、話し合いが始まる前、

あるいは、話し合いの途中で

 

「教員が考える正解は何か」を意識する。

 

そして、適切なタイミングで、空気を読んで、

つまり、教員が言ってほしいときに

その授業のテーマの正解を、
又は正解に近づくための発言を、する。

 

こういう目先の利く生徒を、教員は好きですね。

 

逆に、空気を読まず、
自分の意見を堂々と述べる生徒は

教員から嫌われます。

 

授業がうまい教員は、

こういった(空気を読まない)発言を

うまーくスルーして、

授業時間内に、きれいに話をまとめる。

技術のある先生は、授業の終わる頃に、

板書もきちんと整理する。

 

中には、そのきれいに整理された板書を、

授業の最後に生徒に丸写しさせたりする。

 

これって、何なのかなぁ。

 

これではまるで、

「自分のあたまで考えるな!」と

教えているみたい。

 

でも、学生たちに聞くと、

高校までは、

「そんな感じの授業ばかりだった」らしい。

 

いや、大学の授業だって、似たようなものかもしれない。

 

そして社会人になり、会社に入っても

上司の顔色をみて、
上司の頭の中にある正解を

きちんと実行できる若手社員が重宝される。

 

小中高大の16年間、

自分の意見をもてない教育を受け、

会社でも、同じような状況が続く。

 

これでは、

「自分の好きなことがわからない」

「指示がないと、何をしていいかわからない」

「自分を優先して、人に迷惑がかかりそうなことをやってはダメ」

とまぁ、言ってみれば、

カチカチの状態になってもやむを得ない、かもしれない。

 

うーん。

 

授業は、教員の頭の中の正解を当てるゲーム。

 

この仕組みを変えない限り、

他を(やり方や内容を)いくら変えても

学校教育の質は、きっと変わらない。

その思いを改めて強くした、哲学対話の授業だった。