捨てる、手放すということ

捨てること、手放すこと。

これができるかどうかで、人生、大きく変わる気がする。

 

何か新しいことを始めるとき、
「今までどうやってきたか」を振り返ることは重要だ。

 

例えば、研究論文を書くとき、

書こうとする分野で、今までどんなプロセスでどんな研究が

なされてきたか。最新の知見は何か。

 

それらを調べることは、基本中の基本である。

 

その上で、それらを一歩でも超える何かについて書く。

新しい知見を付け加える。

それが研究だ、と私もずっと教わってきた。

 

一つの分野の中で、ずっとずっと新しい知見が付け加えられていく。

それが「科学」という営み。

 

しかし、そこから、本当に新しい発想ってできるんだろうか?



これについては、大きく二つの考え方がある。

 

①新しい発想はできる。

 過去を調べ抜き、その蓄積、つまり巨人の肩に乗る。

 その上で考え抜いてこそ、新しい発想ができる。

 今の自分が思いついたことなんて、すでに多くの人が考えている。

 自分の思いつきが新しい発想だなんて幻想だ。

 

②新しい発想はできない。

 他人が考えたことを学べば学ぶほど、

 自分のオリジナルは失われる。

 過去の発想に囚われる。

 何もないなかで、つまり、素手で目の前の課題に立ち向かう。

 それでこそ新しい発想ができる。

 

二つ並べると、どっちも筋が通っている。

本当はどっちが正しいのか。

 

具体例を用いて、もう少しこの問題を探ってみる。

 

私が学んできたのは教育学、特に授業方法を研究的に実践してきた。

 

そして今も、新しい授業方法は研究され、開発されている。

書店に行けば、〇〇授業法の紹介本が所狭しと並んでいる。

 

最近は特に、オンライン授業、ICT教育、GIGAスクール構想に関する

本が目に付く。

(ついこの前までは、「アクティブ・ラーニング」がキーワードだった・・)

 

新しい授業方法が開発されては消費されていく。

 

そこで、私は考える。

このブーム?に乗って、新しい授業方法を開発し、実践すべきか。

 

だた、もう一人の私がつぶやく。

 

もうやめようよ。授業で教育するっていう発想自体が

もう古いんじゃない?

 

そもそも授業って必要なのか?

授業で、本当に学力がつくの?

 

こんな問いと向き合っていては、

「新しい授業を開発しよう!」なんてモチベーションは

湧いてこない。

 

それより、一人ひとりの子ども、生徒、学生と向き合い、

その一人ひとりが

「何をやりたいか」「何をやりたくないか」

「何を知りたいか」「何を知りたくないか」

それらを探りながら、一人ひとりと対話する。

それこそが、重要なんじゃないか。

 

新しい教育って、「新しい授業を開発する」ことじゃなくて、

「授業で教育するっていう発想自体を捨てる」ことなんじゃないか。

 

授業で教育なんてできるの?

そんな問いが、今の私の中にある。

 

そして、そんな私に今、浮かんでいる言葉。

それは・・

 

人にものを教えることはできない。

みずから気づく手助けができるだけだ。

You cannot teach a man anything,

you can only help him find it within himself. 

by. ガリレオ・ガリレイ

 

授業でも、個別のセッションであっても、

学習者本人が「気づく」きっかけを与える。

 

そんな人になるためには、

「人にものを教える」というあり方そのものを

捨てる、手放すことが必要なんだ。

 

それをやりたい!と思う今日この頃。