自律的な学び

教員主導の一斉授業ほど、「自律的な学び」から遠いものはない。しかし、教育界は不思議なところで、一斉授業で「自律的な学び」を促そうとする。無茶だ。

授業は「業(わざ)を授(さず)ける」とあるように、教授者が学習者を「受け身」にして初めて成り立つような構造を持っている。だから、授業の「指導」案と呼ばれるものには、「~させる」という使役表現がやたら目立つようになる。

別に「受け身」が悪いわけではない。「受け身」の学びはだめで、能動的で自律的な学びがよい、などということは絶対にない。例えば、基本的なこと、必要なことを短時間で集中して学ぶときには「受け身」の姿勢こそが大切な場合もある。だから、教員も「子どもを受け身にさせて何が悪いの?」と開き直れればよいのだが、そこは世の流れ、逆らうことはできない。

では、子どもが「自律的に」学ぶようにするにはどうすればよいのか。

授業をやめる。学校には来させない。これだ。学校で(義務的に)授業を受けなければならない状況からの自由。いつ、何を、誰から、どのように学ぶかを強制されることからの解放。

実はこれ、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、強制的に日本で一時期、実現した。そのとき、教育関係者が慌てたのなんのって… 「子どもたちの学びを止めるな」とか言い出して、授業録画の配信したり、課題プリントをたくさん作って配付したり… リアルタイムのオンライン授業に可能性を見出した教員もいる。

だが、ちょっと待ってほしい。1,2ヶ月、学校で授業を受けられないからって、それが何だというのか。子どもたちが「自分で問いや課題を見つけて自ら学ぶ」ことができれば、つまり自律的に学べるようになっていれば、何も問題ないはずだ。

もちろん、自宅に一人でいて、何もできないという子どもがいたら…」という心配はわかる。しかしそれは、教育というより福祉の問題で、「学びを止めない」ことより、福祉が必要な子どもの早期発見やそのサポートの方が、よほど重要だったはずである。非常事態では、教員も福祉を優先した方がよい(というのは暴論?)。

そして、冷静になって考えると、1,2か月なら、純粋に休んだって本当は何も問題ない、という見方もできる(やっぱり暴論?)。なぜそこまで、大人は子どもに型通りの学びを継続させたがるのか… まずはそのことの問い直しをしないと「自律的な学び」は始まらない。