お金の教育

学生に「今の悩みは?」と聞くと

「お金」「金欠」

「貯金したいけどできない」

という言葉が返ってくることが多い。

最近になってやっと

「お金の教育って大事なのに、ないよねぇ」

ということが言われるようになったが、本当にそうだ。

私はかつて、高校の「公民科」の教員だったから

「お金の社会的機能」については教えた記憶があるが、

「個人としてお金をどう扱うか」

「個人としてお金とどう向き合うか」

については、教えた記憶がない。

2022年度から高校の「家庭科」で、

資産形成などの「金融教育」が行われるらしいが、

果たしてどんな授業になるのかな?

金融教育の前にもっと大事なことがある気がする。

かつて、『ドラゴン桜』というドラマで

桜木先生という弁護士が、全校集会で集まった

高校生たちに向かって次のように言った。
====================

例えば、税金、年金、保険、医療制度、

給与システム。

みんな頭のいいやつがわざとわかりにくくして、
ろくに調べもしない頭の悪いやつから
多くとろうという仕組みにしている。

つまり、おまらみたいに頭をつかわず、
面倒くさがってばかりいるやつらは、
一生だまされて高い金払わされ続ける!

賢い奴はだまされずに得して勝つ。

バカはだまされて損して負け続ける。

これが今の世の中の仕組みだ!(中略)

だまされたくなかったら、
損して負けたくなかったら、お前ら、勉強しろ!
====================
まぁ、ここまではっきり言われると身も蓋もないが、
一つの真実だと思う。
お金って、持っている人のところにどんどん集まり、

お金のない人のところからはどんどん出ていく。

金利」一つとっても、そういう仕組みになっている。

そして、『ナニワ金融道』や『闇金ウシジマくん』などの

漫画を読むとよくわかるが、

お金のない人生というのは相当つらいというか、危うい。
一方でお金は、

「豊かな人生」「ゆとりある人生」を実現する基盤、

「困っている人、組織、国」を支援する道具にもなる。
だから、お金の教育って本当に大事。

でも、本当に大切なことって学校では教えてくれない。

なぜか。

大きな理由は「学校の先生も、お金について知らないから」。

私も学校の先生だから、身に染みてそう思う。

なんか学校では、

「お金って汚いもの」

「お金のために働いてるんじゃない」

っていう空気がまん延している。

「働く」って、確かに「夢を実現する」みたいなことにも

つながるけど、「働く」目的って第一義的には

「お金を稼ぐ」ってことだと思う。

「食うために稼ぐ」。これだ。

そして、気を付けないといけないのは、

「お金が定期的に銀行に振り込まれる」ような状況は

人を堕落させる危険があるってこと。

いわゆる、既得権ってやつ。

だから、

「今の自分は、これだけのお金ももらうのにふさわしい自分か」

という問いかけを、いつも自分に向ける必要があるんだよねぇ。

なんてことを考える、今日この頃。

 

価値観のリカバリ

以前、NLP神経言語プログラミング)という

実践的な心理学を学んだ。

NLPは、人の脳の取り扱い説明書、と言われる。

簡単にいうと、

①人をコンピュータに例える。

②人のもつ価値観を、

コンピュータのOS(オペレーティングシステム

やソフト、アプリに見立てて考える。

③人がもつ悩み、問題の原因は

その人の持つ価値観にあるから、

(悩みをもつ人をコンピュータに見立てると)

ソフトやアプリを入れ替え(書き換え)ることができれば、

悩みや問題は解決する。

この、①~③のように考える。

ただし、ここでの問題は、

人の価値観は、コンピュータのように

簡単に削除、アンインストールできないことだ。

特に難しいのは、幼少期にできた価値観。

それは、OS(オペレーティングシステム)として

その人の生き方全体を支配する。

私がNLPを習っていたとき、先生は次のように言っていた。

0歳から6歳くらいまでで、

人のベースとなる価値観、つまりOSは

8割方、形成される。

一旦形成されたベースとなる価値観、OSは

基本的に死ぬまで書き換わらない。

以上。

これ、本当だとすると、かなり絶望的になりますよね (;^_^A

幼少期、不幸になる価値観、OSをインストールしちゃった人は

どうあがいても「そこから逃れられない」ってことだから。

幼少期、親からきびしく「ダメ出し」をされた人は

「自分はできない」

「自分はダメだ」

という価値観を形成し、どんなにがんばっても

最後にはその「自分はできない」「自分はダメだ」

となるよう行動し、その結果をまねく。

恐ろしいのは、

それが「無意識」に行われる、という点だ。

なぜなら、ベースとなる価値観、OSは、

「無意識」の領域に格納されているから。

意識は多少コントロールできるかもしれないが、

「無意識」はアンコントロールだ。

気づいたらやってしまっている。

コンピュータだったら、OSごと入れ替える、総とっかえ、

つまり「リカバリ」したいところだ。

だけど、人のベースとなる価値観、OSの「リカバリ」、

大変なんだよねぇ。

もし仮に、それが完璧に実現したら

記憶は完全に失われて

「私はだあれ?」

「ここはどこ?」

状態から人生をスタートすることになる・・

日常生活を送れなくなっちゃうよね。

じゃあ、一体、どうしたらいいの?

多くの心理学は、この問題が

人の悩み、問題の根本にあると気づき、

それぞれ解決策を提案している。

その中で私が最も納得しているのは・・

(イメージの中で)もう一度、幼少期に帰って

その体験を味わい切ること。

そのときのつらかった思い、悲しかった思い、

情けなかった思い、それらの感情を

味わい切って「開放」してあげること、だ。

それはときに「いやし」とも「ゆるし」ともいわれる。

つらかった幼少期。

本当は隠しておきたかった、見たくない幼少期。

そこに真摯に向き合い、味わいつくすこと。

味わいつくして、手放すこと。
自分を縛ってきたベースとなる価値観のリカバリ

それが本当に大切なんだよなぁ、と思う今日この頃。

他者と世界は敵?味方?

前回のブログで

「あなたはあなたのままでいい」

「私は私のままでいい」

と書いた。

ただ、現実の職場では

理不尽な扱いをされることもある。

このままでいい訳ない、

こんな攻撃的な上司とはやってられない、

こんな仕事しない同僚と一緒にいたくない、

と思うこともある。

そんなとき、どう考えたらよいか。

   :

つらい状況に置かれたとき、人は

「他者と世界は自分の敵」

のように感じてしまうかもしれない。

「敵」と出会ったら、

倒すか、逃げるか。その二択。

これって、精神的にかなりきつい。

他者が自分にとって都合の良いように

変わる、つまり「敵」じゃなくなると

よいのだが、(当たり前だけど)

他者は自分の都合の良いように変わってはくれない。

ここでもし、

「他者と世界は自分の味方」

のように感じることができたらどうか。

よく見渡せば、恵まれた環境かもしれないなぁ、

理解を示してくれる上司もいるなぁ、

助け合って仕事ができる同僚もいるなぁ、という

「他者と世界は自分の敵」

と感じていたときには見えなかった現実が見えてくる。

もちろん、「敵」と戦いたかったら戦ってもいいし、

逃げたかったら逃げてもいい。

ただ、そういう選択をする前に、一度、

「他者と世界は自分の味方」

という観点をもってみることは大切かもしれない。

他者と世界を「敵とみるか、味方とみるか」。

「敵」とみると、世界は生きにくく、

「味方」とみると、世界は生きやすい。

そしてこの価値観、考え方の違い、

実は幼少期に形成される。

簡単にいうと、

両親から冷たく厳しく育てられ、

「あなたはどうしようもないわねぇ」

と言われ続けた子と

両親から愛情豊かに育てられ、

「あなたはあなたのままでいいのよ」

と言われ続けて育った子との違い。

前者の子は「他者と世界は自分の敵」と感じやすく、

後者の子は「他者と世界は自分の味方」と感じやすい。

恐ろしいのは、こうした価値観、考え方の違いは

基本的に一生涯変わらない、ということ。

三つ子の魂、百まで。

人生100年時代と言われるが、百まで変わらないです・・

「人は、幼少期に形成した価値観、考え方が正しかったと

証明するために生きているようなもの」。

これは、以前私が心理学を学んでいたときに

先生から教えられ、衝撃を受けた言葉。

幼少期に形成した価値観、考え方とは、

パソコンで言えば、OS(オペレーティングシステム)。

アプリのように簡単に加えたり消したりできない。

だから、やっかい。

でも、もしその根本となる価値観、考え方を

変えることができたら、人生は大きく変わる、ともいえる。

「他者と世界は自分の味方」。

そう思って、来年一年、過ごしてみようと思う今日この頃。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主体性のある空間

今年一年を振り返って、

自分の学びを振り返ってみると

コーチング連続講座」の占める割合が大きい。

対象者は教員のみ。

教員が、自らの教育現場での

コーチング的な実践を振り返り、講座の場で共有する。

新たなヒントを得て、また実践。

そして振り返り。その連続。

先週の日曜日が講座の最終回だった。

そこでの気づき。それは、

「あなたはあなたのままでいい」

「私は私のままでいい」

この二つ。

そして、この二つは同じこと。

相手を認められない人は、

自分にも認められない部分を持っている。

相手を認められる人というのは

自分を認めている人。

相手とは、要するに、自分のこと。

嫌いな人が多いということは、

自分にも、嫌いな部分を多くもっている、ということ。

だからといって、それを変える必要はない。

「あぁ、そうなんだぁ」

「私にも同じとこ、あるなぁ」

以上、終わり。

「今のままでいい」

「あるがままの自分でいい」

そこにくつろぐ。

それが、コーチングに限らず、

あらゆるコミュニケーション・スキルの前提として

必要な気がする。

「今のままの自分じゃダメ」

「もっと努力しないと認めてもらえない」

そういう強迫観念、恐れって、結構根深い。

自分にもあった。

だから、努力する。

「今の自分を変えたい」

「もっと努力して、人から認められたい」

こういう思いが、エンジンとなって行動していた。

でも、こういうのって、なかなか上手くいかないんだよね。

だって、「今の自分を変えたい」っていうのは

「今の自分はダメ」と自己否定してる訳だから。

否定された自己は、なかなか力を発揮してくれないし、

無理に頑張ろうとすると、心の形が歪んでくる。

「がんばらなくていい」

「今のままで十分素敵」

そう、相手にも自分にも言えるようになりたいなぁ。

私が、学校教育に対する違和感は、

その逆のメッセージに溢れているから。

「もっとがんばれ!」

「現状に満足するな!」

まだ欠けているところ、まだ足りないところがあるだろ!」

こんなメッセージ。

「いまのままでいいんだよ」

「もし、自分の中に問いが生まれて、

調べたい、考えたいっていう気持ちが湧いたら、一緒にやろう」

こんな感じで、学習できたらいいなぁ。

コーチングを学校教育に普及したい、という思いで

参加したコーチング連続講座。

その最後でたどり着いたのは

「あなたも私も、変わらなくていい」

というメッセージ。

コーチングって、

学びや気づきを行動に「変容」させる

コミュニケーションスキルだけど、

その前提は「変容」しなくていい、というメッセージ。

逆説的だけど、

「やらなくていい」という前提があるから、

「やる」という主体性が生まれる空間ができる。

まずは「空間づくり」から。

以上、今年の学びのまとめでした <_ _>

 

 

 

 

 

40人学級

今回も、小学校の教育実習を経験してきた

学生との会話から。

私: 荒れた学年というのはあった?

学生:6年生が大変そうでした。

私: どんな感じ?

学生:その学年は、児童が80人ぎりぎりだったので、

   40人学級が2クラスでした。だから、

   当初からきびしいと予想されてたみたいで・・

私: 40人って多いよね?

学生:はい。座席は縦6列、横7列。

   7列目だと、机と椅子のすぐ後ろが壁。

   後ろを歩いて通れない状態・・

私: 狭い教室にそれだけの人数を押し込めるって・・

学生:そうなんですよ。

   30人学級と40人学級では、空間からくる

   圧迫感が全然違います。

私: 以前、中学校の先生と意見が一致したんだけど、

   学級人数のMAXは6列×6列で36人、

   それが限界だ、と。

学生:子どもたちも本当にきつそうで。

   雨の日は、休み時間も外に出ることができないため、

   朝からずっと教室にこもり切り。

私: それって、ある意味、拷問だよなぁ。

そして、話はこれで終わらない。

学生:6学年には、自閉症ADHDを併発している子がいて

   ガマンできずに、授業中、よく廊下に飛び出すんです。

   元気のいい子なんで、他の子どもたちもつられて

   廊下に飛び出しちゃうんです。

   学級担任もどこかに消えてしまって、無法状態

   私はそれを「パーティー」って呼んでました。

私: パーティー

学生:はい。あまりにもよく起こるんで。

   名前だけでもポジティブにしようと思って。

   「また、パーティーが始まった!」って。

   おとなしく授業を受けたい子どももいるんですけどね・・

という感じ。

学生によると、こんな状態であるにも関わらず、

6学年では「起業家教育プログラム」というのをやってたらしい。

取り組み自体は、とても素敵なんだけど、

正直「そんなこと、やってる場合か?!」と思った、と。

なんか、前々回のブログと重なってしまうが、

教室の現状とマッチしない「キラキラ☆プログラム」が

小学校の現場に次々と降りてくる。

「事件は現場で起きている!」

きっと、現場の先生方は、目が回る忙しさのはずだ。

私が恐ろしいなと思うのは、

文部科学省にも現場にも、

「足し算の発想しかない」ということ。

古いこと、機能しないことをそのまま放置して、

新しいことをどんどん付け足していく。

一種の、というか完全な「思考停止」。

何か新しいことをやろうと思ったら、

古いこと、機能しないことをやめないと。

何を捨てるか、何を省くか。

しっかり考え、優先順位をつけて、

不必要なものは思い切って捨てる。

断捨離。

それができない限り、

現場の機能不全は、さらに深刻化し、

手に負えない状態になっていく気がする。

(今がすでにそうかも?)

以上。

 

 

   

 

「誰が」教えるか

NHK for Schoolというサイトがある。

小学校のあらゆる教科、そして中高で学ぶ教科について

わかりやすく編集された動画教材や解説記事などが

単元やテーマごとに掲載されている。

小学校の教育実習から戻ってきた学生によると

サポートに入ったある教室の社会科授業では

教員は子どもたちに

NHK for School(の社会科の単元)を見せる

②内容をノートにまとめされる

タブレットで振り返りを書かせる

以上

という授業を毎回!行っていたらしい。

一人ひとりの子どもへのフィードバック等は一切なし。

じゃあ、教員は何をしているかというと、

教壇で他のクラスのテスト採点?をしてたという。

これって、どうなんですかね?

この教え方?というか学び方の是非と問う前に

私の最初の感想は

「それだったら、教員、いらなくないですか?」だ。

この問いに対し、先の学生は

教員の仕事は「評価をつける」くらいでしょうか?

と言っていたが、評価だって

全国統一の社会科テスト?とかでつければいいと思う。

その方が、ずっと公平・公正で客観的だ。

テストは何度でも受け直し可として

全員が合格点、基準点に達するまで

一人ひとり丁寧に、学校として責任をもってサポートする。

その役割を果たすのが教員なんじゃないかな。

ただ、NHK for Scoolを見せて「教えた」気になる。

教員としての役割を

「正しい知識を≪伝え≫子どもがそれを身につけたか評価する」

ことだと理解していると、そうなる。

だから、大切なのは、

面白くってわかりやすい教材の開発や

教え方(例えばアクティブラーニング)の開発などではない。

教員の役割の転換、

自己認識、アイデンティティの転換だ。

「私の仕事は、今の時代、知識の伝授ではない」

ということを腑に落とすことだ。

これは、小学校だけでなく、中高、そして大学の教員についても

言えると思う。

教員の多くは、自分たちの(教員としての)仕事を

「知識(及び技術)の伝授」と思っている、だろうから。

私は、30代のころ、高校の教員だった。

そのとき、どうしても授業が上手く展開せず、

高校生との関係性も上手く築けず、悩んでいた時期があった。

学校外の勉強会に毎週出かけ、教育書も大量に読み、

いろんな工夫をしてみたが、ダメだった。

そんなとき、ある先輩に相談したら、こんな言葉が返ってきた。

「教育っていうのはね、何を教えるか、どう教えるかじゃない」

「誰が教えるか、なんだよ」

そのとき、私に衝撃が走った。

「誰が」かぁ・・

「誰が」。そこにすべてがある。

ところが、教育方法研究の大半は

「何を」「どう」教えるのが、よい教育か

「何を」「どう」教えるのが、効果的・効率的か

ということに向かっている。

「誰が」に焦点を当てた研究って、ないんだよね、本当に。

でも、本当に大切なのはそこ。

「誰が」教えるか。

だから、まずは、謙虚に足元を見つめ、未来に向かって

向上心をもって学ぶ姿勢を、今、自分が持てているか。

そこを改めて見直したいと思う、今日この頃。

 

 

 

 

 

 

 

事件は現場で起きている!

オンラインで、

小学校のプログラミング教育の

模擬授業を受けた。

「ビスケット」というソフトを使って

「打ち上げ花火の動画が作る」という内容。

私は、最初の授業者の説明に全くついていけず、

実際の作業では戸惑うばかり。

一緒のグループだったある先生が

一つ一つの作業を丁寧にナビゲーションして

くれたお陰で何とかできた。

サポートってありがたいなぁ(^^)

きっと、小学校の現場でも、こういうのを

すぐに理解して進んでいく子と、

全くついていけない子がいるんだろうなぁ。

もちろん、こうした新しい授業に

率先して取り組む先生もいるし、

苦手意識から躊躇する先生もいるだろう。

実際、現場はどうなっているのか?

小学校の教育実習からもどってきたばかりの

学生に、現場の様子を聞いた。

すると、・・

タブレットを使って授業する」ことが

目的化しちゃってました。

この内容でタブレットを使う意味あるんだろうか?

という授業も、学校の方針で

タブレットを使う!」となったら使わざるを得ない。

小学校1先生、2年生も使うことになるが、

教科書とノートとタブレットを行ったり来たり

しながら授業を受けるのはさぞかし大変だろう。

「はい、教科書○ページ開いて・・」

「今やったことをノートにまとめて・・」
タブレットで○○開いて○○押して・・」

「先生! 画面消えちゃったー!」

「ぼくも!」
「わたしも!」

ってなる訳だから。

教員の授業準備も大変だよね。

学生は、

小学校2年生の生活科だったら、

校内にあるものをタブレットで写真とって

みんなで見せ合うくらいでいいですよねぇー

って言っていた。

私もそう思う。

どうも「GIGAスクール構想」だの、

「1人一台端末で未来型授業を!」だのの言葉に

踊らされて、現場が振り回されていると感じた。

教育政策を決める人と現場との乖離。

学生が言っていた。

小学校を取り巻く地域の状況を考慮して、とか
教員のITスキル等の実態に合わせて、

ということが全くないように思いました。

正直、教員になるの、不安です・・

そうだよねぇ。

事件は教室で起きている。

でも、どんな事件が起きているか、

政策を決定する人、組織は何も知らない。

これって、結構恐ろしい事態かも?

実際に教室で起きていることを正確に知り、

そのことに一つ一つ丁寧に向き合う、対応する。

その積み重ねだけが、有効かつ効果的だ。

この文章の最初で紹介した模擬授業のあと、

ある先生が言っていた。

「もっと、子どもの声を聴こう!」

現状は、子どもの声が学校のいろんな決め事に

反映されていない。

そのことに関する問題提起だった。

現場の声とは、教員の声のことだけではない。

子どもの声、保護者の声、地域の人々の声、

様々な現場の声を聴く。

そこからしか、未来の教育は始まらないよなぁ。

そんな思いを改めて強くした。