学級とは何か

『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』

柳 治男著 講談社・選書・メチエ 2005年

の中に、次のような記述がある。

   例えば、「学級崩壊」といわれる問題の

  議論の仕方は、明らかに「学級」の存在を

  自明視している。「学級」が存在し、成り立つ

  ことが前提となっているからである。

   成り立つことが前提となっているから、

  崩壊現象が問題とされるのである。(p.1)

子供たちが、教員の指示に従わない。

勝手に立ち歩く。

私語をする。

けんかする。

いじめがある。

これらは、もしかすると、

「学級がある」ことが、問題の本質的な原因かも

しれない、という観点が上記の文章にはある。

確かに、子供たちが立ち歩くこと、

おしゃべりしたり、たまにけんかしたりすること。

これらは当たり前で、問題ではないかもしれないのだ。

 私は、大学生時代、教育学の授業で、

 教員から次のように教えられた。

   君たちは、学級があり、授業が整然と行われること

   を当たり前と思っているかもしれないが、それは違う。

   それは「特殊な」ことなのだ。

   お葬式や結婚式で、小さい子供がじっとしていられない。

   そんなことは当たり前で、不思議でもなんでもない。

  「なぜ、学級が崩壊するのか」を問うのではなく、

  「なぜ、授業が整然と進むという特殊なことが

   今まで成立してきたのか」を問いなさい。

これを聞いたときは、結構、衝撃的だった。

そして、なるほど!と思った。

「自明視していることを疑う」。

大学って、自由でいいところだなぁ、と素直に感じた。

いじめ、不登校

そもそも、あの狭くて無機質な教室空間に、

朝から夕まで閉じ込められたら、そりゃ窮屈だ。

しかも授業の時間は、基本、ずっと椅子に座って

教員の話を聞き、指示に従わなければならない。

これって、拷問なんじゃないか、と思うこともある。

しかも、教員はいつも同じ。

クラスのメンバーも1年間ずっと同じ。

この仕組みを自分の力ではどうすることもできない。

そうなったら、

人間関係自体をおもちゃにして遊ぶ、悪ふざけ、けんか、いじめ

と発展していくのは、むしろ自然な流れのような気もする。

そして、「こんな空間にいたくない!」

不登校になるのも、むしろ、健全な精神の発露かもしれない。

もしじっとがまんできたとしたら、そのことの方が「危ない」と

気づく必要があるかも? 

実は、近代以前の学校、例えば、寺子屋には

学級というものは存在しなかった。

もちろん、教授活動の全体的な計画も存在しない。 

学級=教育の場。授業=教育。

この前提を本気で疑い、「仕組みそのもの」を変える。

そこに着手できるかどうかが、今、問われている気がする。